新印象主義の時代とは? わかりやすく解説

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新印象主義の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:37 UTC 版)

カミーユ・ピサロ」の記事における「新印象主義の時代」の解説

ピサロ1884年4月セーヌ川支流エプト川(英語版)沿いのエラニー=シュル=エプト(英語版)に移りその後生涯ここに住んだ。その年8月22日には、最後の子となる第8子(五男)ポールエミール生まれたピサロ1880年代初頭から、細かいタッチ重ねて描く方法試みていたが1885年3月4月、ギヨマンの紹介ポール・シニャック知り合い次いで10月シニャック紹介ジョルジュ・スーラ出会い大きな影響受けた当時スーラはオグデン・ルード(英語版)の『近代色彩論』やミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの『色彩同時対比の法則』を基に、絵画光学的理論取り入れようとし、対象物小さな色の点に分割した点描採用し代表作グランド・ジャット島の日曜日の午後』を制作であったピサロは、この新印象派自分求めていたものだと感じ、これに加わった印象派は、絵具パレットの上混ぜず小さな筆触キャンバスの上並べるという筆触分割の手法を生み出していた。これにより、絵具混ぜて色が暗くなってしまうことを防ぎながら、視覚的に筆触どうしの色が混ざって見えるという効果得られた。しかし、印象派は、感性基づいて筆触置いていたのに対し新印象派は、理論的科学的に色彩分割しようとしたピサロはこれによって筆触の色の濁り不鮮明さから逃れることができると考え、昔の仲間たちを「ロマン主義印象主義者」、スーラシニャックを「科学的印象主義者」と呼んだデュラン=リュエルは1886年4月ニューヨークでパリ印象派油絵パステル画展」を開きピサロ作品40点もその中に含まれていた。この展覧会は、アメリカ収集家印象派関心持ち始め契機となったピサロデュラン=リュエルに依頼して、ギヨマン、スーラシニャック作品加えてもらった。 同じ年、最後グループ展となる第8回印象派展開かれたピサロはこの展覧会際し画商ではなく画家たち自身主導によって行われるべきこと、また、ギヨマン、スーラシニャックゴーギャン参加させることを主張したドガはこれに同意したが、モネ画商ジョルジュ・プティ国際美術展参加決めていた上、新印象派にも否定的であり、グループ展への不参加決めたルノワールカイユボットシスレーも、モネ同調して参加見合わせたその後も、新印象派参加めぐってピサロウジェーヌ・マネとの間で論争があったが、スーラシニャックピサロという新印象派別の部屋展示することで妥協図られた。最も注目集めたのは、スーラの『グランド・ジャット島であった。この第8回展は、実質的には、印象派展覧会というより、新印象派象徴派など、新し運動の出発点になったデュラン=リュエルも、ピサロ新し画風否定的購入作品数減少したピサロも、他の画商支援者を当たらなくてはならなくなった1887年5月には、画商ジョルジュ・プティ展覧会出品したまた、同年から、ブリュッセル20人展招待された。加えて、ブッソ・ヴァラドン商会(元グーピル商会)のテオドルス・ファン・ゴッホテオ)とも取引をした。テオ1890年ピサロ個展開き批評家アルベール・オーリエも、この個展見て「この最新の手法によって、驚くべききらめき揺らめき効果出ている。」と称賛したまた、テオから、南仏病院入院している兄のフィンセント・ファン・ゴッホ療養について相談を受け、オーヴェル=シュル=オワーズに住む医師ポール・ガシェ紹介した1890年5月から6月にかけては、息子ジョルジュに会うためイギリスロンドン訪れ、『チャリング・クロス橋』など6点制作し、エラニーのアトリエ仕上げたこの頃までピサロ点描の手法を用いていたが、余りにも時間がかかる上、買い手からも点描作品嫌われるという現実直面した長期間アトリエ制作続けなければならないため、自然から受けた感覚自由に記録することができず、それはピサロ自身美学反した。そして、ピサロ次のように述べ新印象主義放棄する至った束の間感覚に従うことができない生命感動き与えることができない、自然の変化に富んだ効果に従うことができない自分デッサン個性与えることができない、あるいは難しいこと、などなどから、私はそれを断念しなければならなかった。 1891年3月29日スーラ急死するピサロ衝撃を受け、「点描主義は、もう終わりだ。……スーラ明らかに何物かをもたらした。」と述べている。 『リンゴ収穫、エラニー』1888年油彩キャンバス、61.0 × 74.0 cmダラス美術館。 『部屋の窓からの眺め、エラニー』1888年油彩キャンバス65 × 81 cmアシュモレアン博物館第8回印象派展出品。 『チャリング・クロス橋1890年油彩キャンバス60 × 90 cmナショナル・ギャラリーワシントンD.C.)。 『2人の若い農婦』1891-92年。油彩キャンバス、89.5 × 116.5 cmメトロポリタン美術館

※この「新印象主義の時代」の解説は、「カミーユ・ピサロ」の解説の一部です。
「新印象主義の時代」を含む「カミーユ・ピサロ」の記事については、「カミーユ・ピサロ」の概要を参照ください。

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