新印象主義の時代
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「カミーユ・ピサロ」の記事における「新印象主義の時代」の解説
ピサロは1884年4月、セーヌ川の支流エプト川(英語版)沿いの村エラニー=シュル=エプト(英語版)に移り、その後生涯ここに住んだ。その年8月22日には、最後の子となる第8子(五男)ポール=エミールが生まれた。 ピサロは1880年代初頭から、細かいタッチを重ねて描く方法を試みていたが1885年3月か4月、ギヨマンの紹介でポール・シニャックと知り合い、次いで10月にシニャックの紹介でジョルジュ・スーラと出会い、大きな影響を受けた。当時、スーラはオグデン・ルード(英語版)の『近代色彩論』やミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの『色彩の同時対比の法則』を基に、絵画に光学的理論を取り入れようとし、対象物を小さな色の点に分割した点描を採用し、代表作『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を制作中であった。ピサロは、この新印象派が自分の求めていたものだと感じ、これに加わった。 印象派は、絵具をパレットの上で混ぜず小さな筆触をキャンバスの上に並べるという筆触分割の手法を生み出していた。これにより、絵具を混ぜて色が暗くなってしまうことを防ぎながら、視覚的には筆触どうしの色が混ざって見えるという効果が得られた。しかし、印象派は、感性に基づいて筆触を置いていたのに対し、新印象派は、理論的・科学的に色彩を分割しようとした。ピサロはこれによって筆触の色の濁りや不鮮明さから逃れることができると考え、昔の仲間たちを「ロマン主義的印象主義者」、スーラやシニャックを「科学的印象主義者」と呼んだ。 デュラン=リュエルは1886年4月、ニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、ピサロの作品40点もその中に含まれていた。この展覧会は、アメリカの収集家が印象派に関心を持ち始める契機となった。ピサロはデュラン=リュエルに依頼して、ギヨマン、スーラ、シニャックの作品を加えてもらった。 同じ年、最後のグループ展となる第8回印象派展が開かれた。ピサロはこの展覧会に際し、画商ではなく画家たち自身の主導によって行われるべきこと、また、ギヨマン、スーラ、シニャック、ゴーギャンを参加させることを主張した。ドガはこれに同意したが、モネは画商ジョルジュ・プティの国際美術展に参加を決めていた上、新印象派にも否定的であり、グループ展への不参加を決めた。ルノワール、カイユボット、シスレーも、モネに同調して参加を見合わせた。その後も、新印象派の参加をめぐってはピサロとウジェーヌ・マネとの間で論争があったが、スーラ、シニャック、ピサロという新印象派を別の部屋に展示することで妥協が図られた。最も注目を集めたのは、スーラの『グランド・ジャット島』であった。この第8回展は、実質的には、印象派の展覧会というより、新印象派、象徴派など、新しい運動の出発点になった。 デュラン=リュエルも、ピサロの新しい画風に否定的で購入作品数は減少した。ピサロも、他の画商や支援者を当たらなくてはならなくなった。1887年5月には、画商ジョルジュ・プティの展覧会に出品した。また、同年から、ブリュッセルの20人展に招待された。加えて、ブッソ・ヴァラドン商会(元グーピル商会)のテオドルス・ファン・ゴッホ(テオ)とも取引をした。テオは1890年、ピサロの個展を開き批評家のアルベール・オーリエも、この個展を見て「この最新の手法によって、驚くべききらめきと揺らめきの効果が出ている。」と称賛した。また、テオから、南仏の病院に入院している兄のフィンセント・ファン・ゴッホの療養について相談を受け、オーヴェル=シュル=オワーズに住む医師ポール・ガシェを紹介した。 1890年5月から6月にかけては、息子のジョルジュに会うためイギリスのロンドンを訪れ、『チャリング・クロス橋』など6点を制作し、エラニーのアトリエで仕上げた。 この頃までピサロは点描の手法を用いていたが、余りにも時間がかかる上、買い手からも点描の作品は嫌われるという現実に直面した。長期間アトリエで制作を続けなければならないため、自然から受けた感覚を自由に記録することができず、それはピサロ自身の美学に反した。そして、ピサロは次のように述べ、新印象主義を放棄するに至った。 束の間の感覚に従うことができない、生命感や動きを与えることができない、自然の変化に富んだ効果に従うことができない、自分のデッサンに個性を与えることができない、あるいは難しいこと、などなどから、私はそれを断念しなければならなかった。 1891年3月29日にスーラが急死するとピサロは衝撃を受け、「点描主義は、もう終わりだ。……スーラは明らかに、何物かをもたらした。」と述べている。 『リンゴの収穫、エラニー』1888年。油彩、キャンバス、61.0 × 74.0 cm。ダラス美術館。 『部屋の窓からの眺め、エラニー』1888年。油彩、キャンバス、65 × 81 cm。アシュモレアン博物館。第8回印象派展出品。 『チャリング・クロス橋』1890年。油彩、キャンバス、60 × 90 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。 『2人の若い農婦』1891-92年。油彩、キャンバス、89.5 × 116.5 cm。メトロポリタン美術館。
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