文展から院展へとは? わかりやすく解説

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文展から院展へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 15:51 UTC 版)

北野恒富」の記事における「文展から院展へ」の解説

暖か1915年(左)と「鏡の前」1915年第2回院展入選作(右)。両作は本来は一つ作品色彩も対をなしていた。 文展入選きっかけ画家としての地位築いた北野だが、大正2年1913年)の第7回文展出品し心中天網島描いた朝露(現在名は「道行」)」(福富太郎コレクション)が落選して以降は、大正3年1914年)に横山大観下村観山によって日本美術院展(院展)が再興され、その第1回展大観から誘い受けて願いの糸」(所在不明木下美術館などに類似作あり)を出品する。「願いの糸」ではその色彩に対して真っ赤な真っ赤なではない、大阪人のよく使うほんとうの赤の色」を用いた評された。大阪から院展参加したのは恒富のみであった同年には画塾白耀社」を創設した文展への出品大正4年1915年)の褒状受賞作暖か」(滋賀県立近代美術館)が最後となり、大正6年1917年)には院展同人となった恒富情緒濃厚な美人画によってその特異的な存在で更に知られるうになるこの後院展出品力を入れるようになり、大正10年1921年)の再興第8回院展に「茶々殿」(大阪府立中之島図書館)、昭和3年1928年)の第15回展に「宵宮」(大阪市立美術館)、昭和5年1930年)の第17回展の「阿波踊」(所在不明徳島城博物館山形美術館などに類似作あり)、昭和6年1931年)の第18回展に「宝恵籠」(所在不明大阪府立中之島図書館などに同構図作あり)、昭和10年1935年院展無鑑査指定を受け、昭和14年1939年)の第26回展に「星(夕空)」(大阪市立美術館)を出展するなど、昭和21年1946年)の第31回展まで、ほぼ毎年出品続けられ創作大きなとなったこのころになると、画風もかつての濃密なそれにかわり、清澄簡潔優美なものへと変貌したこの間にはこれらと並行して大阪美術院1917年第3回展に「風」広島県立美術館)、翌18年第4回展に「紅葉狩」(個人)、昭和11年1936年)の改組第1回帝国美術院展に「いとさんこいさん」(京都市美術館)、昭和17年1942年)には日本画家報国会軍用機献納画展覧会に「関取」(東京国立近代美術館)、昭和18年1943年)の関西邦画展に「夜桜」(大阪市立美術館)、再興第30回院展に「」を出品する。また昭和9年1934年)には聖徳記念絵画館壁画「御深會木」を制作した

※この「文展から院展へ」の解説は、「北野恒富」の解説の一部です。
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