文展の寵児
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:32 UTC 版)
明治30年(1897年)景年塾を卒業、展覧会への出品画増えていく。四条・円山派の流れをくんだ写生を基本とし、初期は動物画を得意とし、一気呵成な筆さばきで大作を次々とこなしていった。明治32年(1899年)全国絵画共進会に出品した「瓜生兄弟」は宮内庁買い上げとなり、桜谷の出世作となった。明治36年(1903年)第5回内国勧業博覧会出品作「揺落」も天皇買い上げの栄誉に浴す。画題も花鳥画、山水画、歴史人物画へと広がっていく。明治40年(1907年)文展の第1回から第6回まで、二等賞4回・三等賞2回と連続受賞し(この頃の文展では一等賞は空席)、早熟の天才という印象を与えた。その理由として、桜谷自身の画才の他に、その作風が展覧会の時代にうまく適合していたからとも考えられる。各種展覧会が西洋建築による大空間で頻繁に開かれるようになると、多くの観者が一度に見られる画面の要求が高まった。更に文展になると、応募作に大きさの制限はなかったため、画家たちは出来るだけ大きな画面で制作する必要を感じ、伝統的な屏風絵に注目する。そうした中で桜谷は、左右を対として描かれることが多い屏風絵を、連続する一つの絵画空間として捉え直し、幅広な横長の画面を動勢感のある充実した構図によってパノラマミックに描き出した。後述するように、審査には激しい毀誉褒貶が付きまとったようだが、桜谷は黙して語らず、「耳が聞こえない」という意の別号「聾廬迂人」を用いるのもこの頃である。
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