文展のおしどり画家、そして死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:14 UTC 版)
「池田蕉園」の記事における「文展のおしどり画家、そして死」の解説
1911年(明治44年)、放浪生活から戻った輝方と結婚、輝方も蕉園同様に文展で受賞を重ね、夫婦で屏風や双幅を合作したりもして、「文展のおしどり画家」と呼ばれた。1914年(大正3年)には再興・第1回日本美術院展(院展)に輝方の「お夏」とともに「おはん」を出品しているが、これは2人のただ1回の院展出品となった。そのころには国民的名士として知られ、上流階級の夫人、令嬢を多く門弟としたほか、大正天皇の前で絵を描いてみせたりもし、作品は高値で買い取られた一方、文展には多くの模倣作が溢れて識者の顰蹙を買い、私生活での行動までもが人々の興味の対象となった。1916年(大正5年)の第10回文展での特選受賞は夫婦揃ってのものだったが、蕉園はこの翌年1917年(大正6年)に結核に倒れ、夫輝方の献身的な看病もむなしく、やがて肋膜炎を併発、同年12月1日、31歳で死去した。犬養毅、当時の皇后宮大夫、文部次官など政、官界の要人、高村光雲、鏑木清方、徳田秋声、松岡映丘ら多くの美術人、門弟、愛好家たちが参列する盛大な葬儀が営まれ、谷中墓地に埋葬された。法名は「彩雲院蕉園妙観大姉」。夫の輝方も4年後の1921年(大正10年)に38歳で没した。 弟子に、木谷千種、松本華羊、ポール・ジャクレーなど。
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