整備後調査による仮説の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 01:52 UTC 版)
「椿井城」の記事における「整備後調査による仮説の推移」の解説
2011年 公園開発の立案がなされ、事前調査が2011年より行われる事となった。現在(2011年12月)のところ発掘による調査の予定は無いが表面観察による詳細な調査が三重大学大学院 中川貴皓氏によって進行中である。現在(2011年12月)までの調査結果を基にして中川氏の城郭への評価及び新説を確認の取れた事項のみまとめたい。 以前までの城跡はブッシュに覆われ地表面の確認が非常に困難な状況であったが、2010年より地元住民の努力によって草が刈られ一部樹木も伐採され地表面調査に最適な状況になりつつある。そう言う状況下での見解である。 城郭全体像に於ける中川氏の見解を簡単に説明すると、城は概ね一つの城郭として評価すべきで南北に顕著な時代差は見られないと言う見解である。但し城は細分化すると三つの区画に分かれており、北の堀切から副郭南の堀切までを北区画 、副郭南の堀切から方形郭と一つ南の郭までが中区画、鞍部を挟んだ南にある南城部分が南区画である。敵来襲の予想正面は主に南であり、南区画・中区画・北区画と段階を持って戦闘を行う意図が縄張に感じられると言う事だ。東の横堀、東を向いた土塁等は東谷の比高差の少ない弱点を補う物として評価しているが、東方よりの筒井勢の来襲にも当然備えていたと見るべきであるとの事だ。つまり、まず南区画で敵と交戦しいよいよ防げぬとなれば素早く鞍部を移動し中区画まで下がり、中区画の郭に再度篭って敵を迎え撃ち、そこも駄目となれば堀切に掛かる木橋から北区画へと更に下がって最終的に北区画(中心部)に於いて敵を迎え撃つという三段階の戦闘を想定した思想による築城であると分析されている。鞍部にあってもおかしく無い堀切が無いのは南区画より中区画への移動をスムーズに行う為と言う見解であり、中区画にある方形郭は中区画に於ける戦闘指揮所であって方形に整形され四方の眺望を良くしていると言える。 残存遺構に於ける構造の詳細評価については、幾重にも寸断された城の中で最南の堀切に土橋があるのは重要な出入口であり、是非にも土橋を設けて移動を安易にする必要があったと評価している、主要な登城ルートを示唆するものか・・・。又、堀切土橋の土塁障壁による虎口の折れや木橋での移動、北中心部主副郭に挟まれた虎口受け郭への内枡虎口、そこから更に主郭に上がる際の二度折れする内枡虎口等の構造も優れた物であると評価されている。そして主郭部の南部塁線が竪土塁の線と一直線となり間に虎口への折れが挟まれる部分などは高度な技術が垣間見えるとの事である。 東斜面にある横堀に関しては、城兵の配置は無かったのではないかとの分析もあり、敵兵に対する障害だけとして見る可能性も示唆されている。 自然地形を巧みに利用し、無駄の無い縄張にて土木量を無理に増やさず大きな効果を得ている城として評価すべきだとし、近畿の城の中でも完成度のかなり高い城として評価すべきだとしている。 最終的に築城主に関する検証は城の規模と高度な縄張から見て筒井順慶の一被官であった嶋左近では考えられず、松永配下の武将による築城であろうと推測されている。 まだ調査は続いており、ブッシュに覆われた部分も存在する。今後の整備と研究によって新たな評価、新説がでる可能性は大である。
※この「整備後調査による仮説の推移」の解説は、「椿井城」の解説の一部です。
「整備後調査による仮説の推移」を含む「椿井城」の記事については、「椿井城」の概要を参照ください。
- 整備後調査による仮説の推移のページへのリンク