教化団体の所管を巡る内務省と文部省の対立
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「教化団体」の記事における「教化団体の所管を巡る内務省と文部省の対立」の解説
1920年8月、内務省は地方局社会課を社会局に昇格し、新設した社会局第2課の分掌事項に「社会教化事業に関する事項」を明記する。こうして内務省が教化団体への関与を進めていったのに対し、文部省も翌1921年の頃から教化団体への働きかけを始める。まずその年の1月に教化団体の理事者を20数名集めて第1回の教化団体連合協議会を開催する。翌2月、第2回教化団体連合協議会を開く。教化団体側の出席者は、日本弘道会、大日本救世団、自慶会、皇民会など10団体14名である。協議会では決議を採択した。それは、国民思想の健全向上を図るため、教化諸団体が時々会合して教化上の協議を行うとともに、連合講演会や連合講習会を開催することを確認するものであった。 文部省の第2回教化団体連合協議会は文部省側から課長以下しか出席しなかったが、これに対して内務省は大臣主催の懇談会を開く。すなわち同年4月に床次内務大臣が、大日本救世団、協調会、中央報徳会、大日本報徳社、統一団など11の教化団体の関係者12人を大臣官邸に招いて民力涵養懇談会を開いたのである。床次内相はその席で「民力涵養の実績を挙げようとするには、こういう民間教化団体とも提携し、あい呼応して、同一の目的に進まなくてはならん」と表明し、また「民力涵養ということは、諸君のやっておられる社会教化の運動で、ただ便宜上、民力涵養と名づけているに過ぎないのであるから、今後は更に一層官民一致して、実行を挙ぐるにつとめたい」と述べた。ここに内務省は事実上、教化団体の組織化に踏み出したといえる。 これに対し文部省では6月に国民教化講演会を開く。講演会の冒頭で文部省普通学務局長赤司鷹一郎が挨拶に立ち、今回の国民教化講演会は全国教化団体連合大会の開催を視野に入れてその第一歩として開くものであること、国民教化については文部省が所管すること、教化団体の連合化についても文部省が従来から関与していること、等を述べる。 翌1922年の5月、文部省の外郭団体である帝国教育会が主催して社会教育協議会を開く。社会教育協議会は、文部省から社会教育振興策について諮問を受け、それへの答申において、社会教育事業を統一する機関を内閣直属に特設することを提案し、また、個人・各種教化団体・各種教化機関・新聞雑誌経営者の間の連絡協調を厚くしてその自発的活動を促進することを提案する。 この年の翌年度予算編成で、文部省は社会教育局新設費6万円を大蔵省に要求する。これは、これまで社会教化のために努力してきた社会教育課を昇格させて新たに社会教育局を設けるための要求であった。この要求について文部省は社会教化事業の専管化をかなり重視したと考えられる。この後も文部省は社会教育局新設を具体化していくが、その際に教化団体の所管に拘りを見せる。 翌1923年の6月、文部省は社会教育局の新設費として30万円余りを見込み、新設する社会教育局において社会教育施策を総て統一し、それに教化団体を所管させることを計画する。そして、たとえ大蔵省が30万円余りの新設費を認めなくても、文部省としては2万円程度の最小規模でもいいから社会教育局を設けたいという意気込みを示す。 この年の翌年度予算編成では内務省と文部省がそれぞれ教化団体調査奨励費(教化団体への助成金)を要求して対立する。大蔵省において両省関係者が合議した結果、教化団体調査奨励費は内務省外局の社会局の予算に計上されることになる。ただしそれを実際に支出するときは文部省との協議を要することに決まる。
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