教化団体を組織化する動き
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「教化団体」の記事における「教化団体を組織化する動き」の解説
1920年に文部省が開催した教化団体連合協議会について、後に文部省はこれを回顧して「連合会組織の機運をつくった」と自画自賛するが、内務省に言わせると「文部省でも之(連合会組織)を試みて余り結果の挙がらなかった実例がある」というものであった。 このほか、政府が関与したかは不明であるが、1922年に後藤武夫が「大日本教化団体連合会」なるものをつくったという説がある。一説には後藤が組織した団体の名は「大日本教化団体連盟」であったともいう。また、花田仲之助の報徳会によると、1923年、花田は全国の教化団体が連合する必要を痛感し、同志の一徳会とともに、東京の主要な教化団体と何度も交渉したが、どうしても協議が進まず、そのうちに関東大震災が突発し、困難に陥ったという。 内務省の肝いりで教化団体の組織化が始まるのは、関東大震災の後の混乱を経て、その年の11月10日に国民精神作興に関する詔書が発せられてからである。この詔書は内務省系の国府犀東が中心になって起草したものであるが、これに対しては文部省が先に反応する。文部省はまず同月17日に詔書に関する訓令を発し、21日に詔書に関して地方の社会教育主事を招集して会議を開き、その答申で「各種社会教化団体に対し統制ある訓練を施す」との提案をうける。一方、内務省では、詔書の趣旨を普及徹底するため、大臣その他の内務省幹部が各地に出向いて協議会や講演会を開く予定であったが、震災後の国務繁忙を理由に予定を中止する。その代わりに教化団体を動員するという案が浮上する。東京の教化団体関係者は震災で焼き出されて四方に避難し、所在不明になっているものが多いので、内務省は手を尽して探し、36の教化団体の所在を突きとめる。 そして年の暮れの12月26日、36の団体を内務省社会局の会議室に招集する。団体を選別する余裕がなかったため、招集に漏れた有力団体もあり、逆に零細団体なのに堂々と参加した団体もあったという。有名な団体としては、中央報徳会(代表一木喜徳郎)、日本青年館(後藤文夫)、修養団(蓮沼門三)、日本弘道会(徳川達孝)、処女会中央部(山脇房子)などが招集され、このほか明治余光会、大日本努力会、斯道会、国風会、奉公会、天業民報社というような団体も参加した。協議会の席上、官金の助成を求めた団体もあれば、自己宣伝を続けた迷惑な団体もあったという。さまざまな議論が出るが、詔書の趣旨の普及徹底を図るという点では一致する。そして、教化団体連合会を結成するいう案が出される。それは、教化団体連合会から政府に要求や建議を行って国民の奮起を促すという提案であった。参加者の多数はこれに賛成する。一木喜徳郎も賛成するが、その際に留保条件として「歴史を異にし、特色を有する各団体の自由を束縛するががごときのないように」という注文をつける。中には、かつて文部省主導で教化団体の連合を試みて失敗した例を鑑みて、消極意見も若干あったが、内務大臣ら内務省側が熱心に説いて、どうにか結成の方向でまとめる。 内務省社会局での協議の翌日、摂政皇太子が狙撃される。この虎ノ門事件は教化の重大性を痛感させるものとして捉えられ、教化団体の連合に拍車をかけることになる。この事件によって山本内閣が倒れ、年明け正月元旦に清浦内閣が成立する。後藤に代わって内務大臣に就任した水野錬太郎は訓示で「政府は各種教化団体・教育家・宗教家と協力して、ますます国民精神の涵養と民風の作興とに勉むる」と述べ、従来の路線を継承することを明らかにする。
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