指揮者・合唱指揮者として
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歌手としての活動の他に、昭和初期より合唱指揮でも活躍した。東京音楽学校合唱団との録音、演奏旅行のほか、東京公声楽団、1926年(大正15年)6月慶應義塾ワグネル・ソサィエティー第42回定期演奏会への登場から留学までの指導をはじめ、多くの合唱団を指導した。信時作品では、1940年(昭和15年)11月紀元二千六百年奉祝楽曲として、神武天皇を題材としたカンタータ『海道東征』の初演を指揮し、合唱のみならずオーケストラを伴った大編成の指揮にも力量を発揮した。後年は、自身の提唱した「やまとことば」の第一人者として、自から初演した『沙羅』を合唱に編曲している。戦後も慶應義塾との深い関係が続き、1955年(昭和30年)にワグネルの指揮者に復帰(木下は1969年(昭和44年)に慶應義塾から「特選塾員」の称号を与えられている)。ルネサンス期のポリフォニー、ドイツ古典からコダーイ作品まで、1982年(昭和57年)の逝去前まで男声合唱指揮者として多くの演奏会に登場した。また、1947年(昭和22年)に大谷学苑が創設され指揮者に就任。東京放送合唱団を指揮。1956年(昭和31年)10月日本女子大学合唱団、聖心女子大学グリークラブの指揮者に就任。1957年(昭和32年)CBC(中部日本放送)合唱団第1回定期演奏会開催。同合唱団と1965年(昭和40年)まで定期演奏会5回、ラジオ放送100余回の他、テレビ放送もこなした。その中から團伊玖磨『岬の墓』(1963年(昭和38年)CBC委嘱、芸術祭賞受賞、ピアノ: 三浦洋一)、髙田三郎『橋上の人』(1969年(昭和44年)CBC委嘱、合唱: 日本合唱協会、芸術祭大賞受賞)、萩原英彦『光る砂漠』(1971年(昭和46年)CBC委嘱、合唱: 日本合唱協会、ピアノ: 三浦洋一、芸術祭優秀賞受賞)等の初演作品が生まれている。また、1959年(昭和34年)の全日本合唱コンクール大学部門において、木下の指揮する日本女子大学合唱団が女声合唱団として初優勝し、その後も1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)まで3年連続優勝を果たし、コンクールにおける黄金時代を築いた。なお1962年(昭和37年)には日本女子大学合唱団委嘱により三善晃『三つの抒情』を初演している。1963年(昭和38年)10月「木下保先生還暦祝賀演奏会」を日本女子大とワグネルの2合唱団により開催。1964年(昭和39年)4月日本女子大学卒業生による桜楓合唱団を創設し、指揮者に就任。1966年(昭和41年)11月「信時潔先生追悼演奏会」開催。日本女子大、桜楓、ワグネル、ワグネルOBの4合唱団による信時潔の合唱作品を指揮。1969年(昭和44年)3月-4月ワグネルの米国演奏旅行に指揮者として同行、世界大学合唱祭に参加。1979年(昭和54年)9月「木下保先生喜寿祝賀演奏会」を日本女子大、聖心女子大、ワグネルの3合唱団により開催。
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