批准に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 06:55 UTC 版)
「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」の記事における「批准に至る経緯」の解説
1953年の朝鮮戦争休戦と前後して、米国はMSA援助を日本にも適用し、日本の再軍備を促進したいと希望するようになる。休戦後、過剰となった兵器を日本に渡し、日本の防衛力を増大することは、米国にとって一石二鳥の妙案だった。これに対して日本側では、財界が朝鮮特需に代わる経済特需をこのMSA援助に期待して乗り気を示していた。ここでは日本再軍備に重点を置く米国側と、経済援助引き出しを狙う日本側の思惑が明らかに食い違っていた。ダレス国務長官は同年7月、「保安隊が最終的には35万人に増強されることを必要とするというのが、米国の現在持っている暫定的構想である」と述べ、8月来日の際、吉田茂首相にこの35万人増強を持ち出したが、吉田はこれに応じなかった。吉田はMSA受け入れの前提として、防衛問題と経済援助で日米間の意見調整をはかる必要があると考え、経済に明るい腹心の池田勇人元蔵相の派米を決意した。その前に日本側の立場を強化するため、再軍備を主張する改進党と協調する必要を認め、池田が大麻唯男とのパイプを使い、吉田と重光葵改進党総裁との会談を実現させた。吉田は防衛に金をかけたくなかったため、池田に米国側の主張を値切る理屈を考え出すように命じた。池田は軍事問題には素人のため、当時大蔵省に出入りしていた元海軍嘱託の天川勇に知恵を出させ、この天川の知恵が米国との交渉で役立ったといわれる。しかし池田は不信任決議が可決されて通産大臣を辞任した過去があったため、国会で不信任を受けた人間をなぜ起用するのかという反発が強く、首相の個人特使という性格の曖昧さも野党から突かれ難航し、当初3月下旬を予定していた渡米は延期された。1953年10月1日、吉田の個人特使の名目で渡米、宮澤喜一と愛知揆一が同行する。 池田・ロバートソン会談で再軍備を巡る交渉(MSA協定)が行われた。池田は大蔵省の側近グループと作成した「防衛力五ヵ年計画池田私案」を提示。交渉はまるで日米戦争だったと例えられるほど激しいもので、当時ワシントンD.C.にいた改進党の中曽根康弘は交渉が始まって20日たった10月20日付の『産経新聞』に「苦境に立つ池田特使」と題した一文を寄せ「ミッドウェー海戦に於ける日本艦隊のようだ。情勢判断の誤りとそれに基づく準備不足」などと辛辣に批判した。しかしアメリカ側の10師団32.5万人、フリゲート艦18隻、航空兵力800機の要求に対して最終的に、10師団18万人の陸上部隊とフリゲート艦10隻、航空兵力518機を5年間で整備という池田の主張が受け入れられた。またMSA援助による5000万ドルの余剰農産物を受け入れ、その売上げを産業資金に貸し出すことを定めた。憲法、経済、予算その他の制約に留意しつつ、自衛力増強の努力を続けると約束し日米間の合意が成立、米国側も日本の努力を認めて、駐留軍を順次撤退させていった。 この会談によって敷かれたレールに沿って1954年3月、MSA関係四協定が調印され、防衛庁新設と、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊の三自衛隊を発足させる防衛二法が国会に提出され、6月同協定に伴う秘密保護法と防衛二法の公布により、一連の安全保障体制が完結をみた。池田は吉田派内部で新たな指導者として台頭しつつあると米国政府の注目を浴びた。
※この「批准に至る経緯」の解説は、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」の解説の一部です。
「批准に至る経緯」を含む「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」の記事については、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」の概要を参照ください。
- 批准に至る経緯のページへのリンク