手塚が影響を受けたもの
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Milt Gross 手塚の「映画のような」ページレイアウトは、Milt Grossの初期のグラフィック小説He Done Her Wrongの影響を受けた。 ディズニー 手塚は幼少期から独自の漫画を描いており、田河水泡『のらくろ』、横山隆一『フクちゃん』の模写をするようになったが、7歳の頃に出た謝花凡太郎によるミッキーマウスの海賊版単行本に夢中になり、この本の模写をするようになった(手塚によれば「本家のディズニーに送ってやりたい程」そっくりの絵だったという)。手塚の絵柄は、劇画の影響を受ける1955年頃まではディズニーの影響が強い丸っこい絵柄で、「ディズニースタイル」とも呼ばれていた。ディズニーのアニメーションに出会ったのは9歳のときで、毎年正月に大阪の朝日会館で行なわれる「漫画映画大会」で上演されたものであった。父が家庭用映写機を購入した時には、上演用フィルムの中に『ミッキーの汽車旅行』もあった。以来ディズニーのアニメーションに心酔し、1950年にディズニーの『白雪姫』が封切られた時には映画館で50回、次の『バンビ』は80回以上観たという。 チャールズ・チャップリン 手塚は「尊敬する映画人」として、チャールズ・チャップリンとウォルト・ディズニーを挙げている。 暇があるとよく映画館に出かけた手塚は、チャップリンから多大な影響を受けていることを認めている。手塚はチャップリン映画のテーマが「食う」「寝る」「住む」の三要素に絞られていることが偉大である、と語っており、また「どうしたら後世に残る漫画が描けるのでしょうか」と質問を受ける度に、「とにかくチャップリンの映画を見ろ。あれに全てがある」と答えている。 フライシャー兄弟 なお、竹熊健太郎は手塚が得意とした「楽屋落ち的なメタ・ギャグ」「キャラクターのメタモルファーゼ」から、フライシャー兄弟のアニメーションからも影響を受けていることを指摘している。 万籟鳴 また、手塚の担当編集者でマネージャーも務めた手塚プロ社長の松谷孝征は手塚が最も愛して尊敬したのは万籟鳴であり、手塚はディズニーの影響を受けていると多くの人が認識するも実際は中国アニメ、特に万籟鳴の影響を受けており、その時期はディズニーよりも早くて影響も深いと述べている。病で倒れる直前の1988年に第1回上海国際アニメフェスの審査員として中国を訪れた際も古希を迎えた万籟鳴と再会しており、1989年8月27日に手塚プロが制作し、日本テレビの24時間テレビ 「愛は地球を救う」で放映された『手塚治虫物語 ぼくは孫悟空』でも中国で万籟鳴と会った場面が再現されており、病床の手塚が草案をしたためたものの完成を見ずに放送年の2月に手塚は死去したために遺作の1つとなった。 文学、演劇、宝塚文化 夏目房之介は、「手塚が漫画に持ち込んだ外部性・異質な文化」として、ディズニーとともに文学、演劇、宝塚文化を挙げている。幼少期の手塚の家には新潮社の「世界文学全集」があり、よく外国文学を読み漁っていたという。後に漫画化したドストエフスキー『罪と罰』やゲーテの『ファウスト』は何十回も読み返しており、特に『ファウスト』は日本を舞台にした翻案作品『百物語』『ネオ・ファウスト』を含めると3度にわたり手塚によって漫画化されている。また宝塚演劇に惹かれたことで手塚は演劇青年となり、大学で演劇部に所属していたほか、在学中の1950年頃には関西民衆劇場に所属し、ドストエフスキー『罪と罰』の公演にペンキ屋の役で出演するなどしている。夏目は初期の手塚作品の大げさな表情やポーズ、舞台セットのような背景に宝塚演劇の影響を見ており、また手塚漫画の特徴である牧歌的な風景と未来的な風景の同居を、当時の宝塚の人工的な風景に由来するものと見ている。 その他 子供時代、家には「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」も揃っていたという。 1972年2月に発生したあさま山荘事件について、「わたしはこんな連中を『漫画世代』と読んでいるが、映像で育った若い人たちの間にこんな世代が広がっているのはものすごく危険だ。漫画家としても描き方を反省する時期に来ていると思う」と述べている。
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