愛国ホイッグ党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 10:08 UTC 版)
「ウィリアム・パルトニー (初代バース伯爵)」の記事における「愛国ホイッグ党」の解説
罷免から最終的に政争に勝利するまで、パルトニーは野党に留まり、ウォルポールが腐敗していて暴政を敷いていると考えた愛国ホイッグ党(英語版)を形成した。ウォルポールは1730年に和解しようとしてパルトニーに叙爵とタウンゼンドの官職をちらつかせたがはねつけられた。 パルトニーの不満は議会での演説に見られるだけでなく、彼の出版物にも見られた。1726年12月、パルトニーはボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョンとともに『ザ・クラフツマン(英語版)』という定期刊行の新聞を発行、以降長年にわたって政権を痛烈に批判した。ハーヴィー男爵ジョン・ハーヴィーがザ・クラフツマンへの批判を出版すると、パルトニーは時には公開に、時には編集長のニコラス・アマースト(英語版)を通じて、批判に回答した。議題が王室費、消費税、プリンス・オブ・ウェールズの収入、内政事務のどれであっても、パルトニーは常にパンフレットを用意し、閣僚かその仲間がパルトニーに返答した。 『煽動と中傷が示された』への返答である『最近の中傷的な文書に対する正しい返答』が1731年のザ・クラフツマンで出版されると、パルトニーはハーヴィー男爵から決闘を申し込まれた。さらに『悪名高い中傷に対する返答がザ・クラフツマンの尊敬すべき2人のパトロンに対する意見につながった』(An answer to one part of an infamous libel entitled remarks on the Craftsman's indication of his two honourable patrons)が出版されると、パルトニーは1731年7月に枢密院議員を解任され、いくつかの郡でも治安判事の職を追われた。 パルトニーはウォルポールの政敵のうち、出版物における影響力はボリングブルックより劣ったが、ボリングブルックが議会から排除されたこともあって議会における影響力はパルトニーが勝った。減債基金(英語版)が1733年にほかの使い道に流用されると、パルトニーがその批判を率い、同年の消費税計画で大衆の感情が最低点に下がると、パルトニーの雄弁が大衆の感情を代弁した。それでもウォルポールは内閣の崩壊を防いだ。またボリングブルックがフランスへ引退したが、パルトニーの示唆があっての引退とされ、野党はこの指導者の不和により勢いが弱まった。 1734年イギリス総選挙から1742年に叙爵されるまで、パルトニーはミドルセックス選挙区(英語版)で立候補して、当選し続けた。1734年の選挙直後は政権側の論客が攻勢を強めたが、1738年にスペインとの紛争が起きたことでパルトニーは反撃の糸口を掴んだ。ウォルポールは長らく平和を主張したが、閣僚からの支持は弱く、世論は戦争支持で熱狂していた。結局ウォルポールは名声を保つために折れ、世論を受け入れて戦争を決意した。しかし、ウォルポールは失脚を免れることはできなかった。1739年に宣戦布告した後(ジェンキンスの耳の戦争)、1741年イギリス総選挙が行われ、翌年には選挙をめぐる紛争でウォルポール内閣が崩壊した。 組閣はいくらかの遅延の後パルトニーに任せられ、彼は第一大蔵卿(首相)にウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトンを選び、自身は叙爵と閣議に出席するのみで入閣はしなかった。その意図は内閣の主導権を握ることだったが、逆に人気を失い、影響力も無に帰した。 ウォルポールの息子ホレス・ウォルポールによると、パルトニーは叙爵を辞退しようとしたが、ジョージ2世から叙爵を強制されたという。また同時代の編年史家の記録によると、ウォルポールとパルトニーがそれぞれオーフォード伯爵とバース伯爵として貴族院に登院すると、ウォルポールは「イングランドで最も取るに足らない2人が集まっていますね」と感想を述べた。1742年2月20日に枢密院議員に復帰した後、パルトニーは同年7月14日にヘイドンのパルトニー男爵、リングトンのパルトニー子爵、バース伯爵に叙された。1743年にウィルミントン伯が死去すると、バース伯はジョージ2世に首相職の就任を申し込んだが、首相職はすでにヘンリー・ペラムに内定していた。
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