怪我の多発と脳梗塞で引退
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「栃東大裕」の記事における「怪我の多発と脳梗塞で引退」の解説
2006年(平成18年)7月場所は、綱取りから一転自身7度目の大関角番となった。それでも初日から7連勝、給金相撲となった8日目は対戦相手の露鵬が前日の取組後にカメラマンに暴行事件を起こしたため3日間の出場停止となり、幸運にも不戦勝により勝ち越して角番を脱した。しかし9日目からは元気がなくなり、8連勝の後7連敗という珍記録を残し、さらに11日目の横綱・朝青龍との取組で土俵に膝を強打し負傷してしまった。 翌9月場所は、痛めた膝の影響で初日から3連敗したが、その後は持ち直し9勝6敗で勝ち越した。次の11月場所では、9日目まで8勝1敗と朝青龍を追う一番手として期待されたが、10日目に出島との取組で古傷の膝を強打、さらに親指を剥離骨折して心配されたが10勝5敗と同年3月場所以来の二桁勝利を記録した。しかし場所後も膝の状態は思わしくなく、12月20日に内視鏡を用いた左膝のクリーニング手術(軟骨の除去及び半月板の一部切除)を行った。 2007年(平成19年)1月場所は、手術後2日目には退院して一週間後には稽古も再開したが、膝に違和感が残っており十分な稽古が積めない状態と、出場が微妙な状況な中、感覚を取り戻すためと強行出場した。しかしながら膝の踏ん張りが効かず、初日は琴奨菊、2日目は露鵬にあっという間に寄り切られた。更には中日から4連敗するなど体の切れも悪く、13日目に負け越しが決まった。大関の地位での皆勤負け越しは、2003年(平成15年)7月場所以来自身2度目であった。最終的に5勝10敗と幕内で初めての二桁黒星に終わった。 8度目の角番となった次の3月場所は、場所前「5日目までに2勝できなければ、その時点で引退する」という意向を明らかにしてファンを心配させたが、初日から7連勝し10日目に勝ち越して角番を脱出した。しかし、場所途中から高血圧や激しい頭痛に悩まされ、11日目の朝青龍戦(結果的にこれが栃東の現役最後の一番となる)の取組後、翌12日目に「高血圧」(当時最高血圧の数値が200以上だったという)の診断書を提出し途中休場、急遽入院した。父・玉ノ井親方は会見で「クモ膜下出血の疑いもあって心配だ」とコメントし、容態が気遣われた。 この時点の診断では、過去に自然治癒していた脳梗塞の跡が発見されたが、それ以外には脳に異常は見られなかった。そこで、血圧を下げる投薬療法により一旦は回復して退院した。その後栃東本人曰く「辞めるなんて一言も言っていない」と語っていたが、3月場所後の巡業は大事をとって土俵入りだけの参加となった。同年4月26日には脳を含めた内臓などの精密検査を受けるため再入院し、同年5月場所は休場することが濃厚になっていた。そして検査の結果、医者から「このまま相撲を取り続けたら脳梗塞を再発させるどころか、生命の危険・最悪死に繋がる可能性大」等と宣告された為、これ以上現役を続行するのは不可能と診断された。栃東は最後まで現役への意欲を見せたものの病気には勝てず、同年5月場所開催直前の5月7日に引退を正式に発表した。当時は前述の病気の事があまり知られていなかったこともあり、突然の引退に驚く関係者やファンも多かったという。なお大関在位数は30場所(番付上は31場所)、北葉山と並んで当時史上11位タイ(現在14位タイ)の記録だった。
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