御所千度参りとその波紋
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「天明の打ちこわし」の記事における「御所千度参りとその波紋」の解説
天明7年5月、江戸、大坂、京都の三都のうち、京都では大坂、江戸とは異なり打ちこわしは発生しなかった。しかし江戸、大坂や全国各都市での打ちこわし発生を受け、京都でも米の買い占めによる米価高騰に対する不満が高まり、打ちこわしの回状が出回るなど不穏な情勢となっていた。京都における不穏な情勢を受け、京都所司代や伏見奉行はお救い米の給付を求める願いを再三提出していたが、江戸の老中は当初その願いを却下していた。そのような情勢の中で、天明7年6月5日(1787年7月19日)頃から、御所を神社仏閣、天皇を神仏と見なし、御所の築地塀の周りを何度なく巡り、南門ないし唐門の前で拝礼を行い、そして賽銭を投げ込むという御所千度参りという動きが発生した。御所を巡り拝礼を行った民衆たちは、先年の凶作が引き金となった米価高騰に苦しめられており、御所千度参りで主として豊作を祈願した。また米価高騰の中、京都町民は京都町奉行所に何度となく救済策の実行を嘆願しながら、全く救済策が実行されなかったため、もはや京都町奉行所や幕府を見限り、天皇に直接米価高騰の救済を求めるという運動でもあった。 開始当初の御所千度参りは小規模であったものが、天明7年6月10日(1787年7月24日)あたりから急速に拡大し始め、京都のみならず大坂、近江、河内、丹波などからも集まってさながらお蔭参りのようになり、最盛期には約5万人の人々が御所千度参りに参加するようになった。しかも6月10日には御所千度参りを勧めるビラが京都の町内各所に貼られ、町レベルで集団でお参りを行うなど、御所千度参りは組織的な活動となってきた。このような動きに幕府側は神経を尖らせ、朝廷に御所千度参りの禁止を申し出たが、朝廷側は信心でやっていることを止める必要はないと幕府の提案を拒絶した。それどころか酷暑の中で御所の築地塀を巡る庶民のために湧き水を溝に流し、御所千度参り参加者に対して後桜町上皇はリンゴを配り、四親王家、五摂家、女院、門跡などからは湯茶や飯を振舞うなど、民衆たちの行動を極めて好意的に受け止めた。 そして御所千度参りは天皇に直接米価高騰の救済を求めるという運動でもあったため、光格天皇、後桜町上皇は困窮者のための炊き出し等が朝廷の手で行えないか、また幕府に救済策の実施を指示できないのかなど、民衆が困窮した事態の解決策に頭を悩ませていた。天皇と上皇の意向を受けて、関白の鷹司輔平は武家伝奏に対して、救済策を京都所司代に申し入れることを検討するよう再三に渡り指示した。困窮した民衆の救済を求める内容とはいえ、朝廷が幕府の政治に口を挟むことはこれまでに例がなく、武家伝奏は幕府を刺激しないように慎重に取り計らった。天明7年6月14日(1787年7月28日)、武家伝奏は京都所司代の戸田忠寛に対して困窮する民の救済策の実現を要請した。その際、「口頭での申し入れで誤りがあってはならないので」書付を渡すといった名目で、朝廷からの要請を幕府側に手渡した。これは朝廷側が幕府をできる限り刺激しないような形で貧民救済の申し入れを行うためのテクニックであった。 全国各地で同時多発的に発生した打ちこわしを受けて、幕府側はこれまでとは対応を変えて、各都市の困窮者たちに支援の手を差し伸べるようになっていた。幕府は京都についても朝廷からの申し入れが江戸に届く前に500石のお救い米支給を決定していたが、朝廷からの申し入れを受けてお救い米の追加を指示した。これは幕府が御所千度参りという平穏な形で米価高騰に対する抗議の姿勢を示していたものが、打ちこわしに発展することを恐れたためと考えられる。いずれにしてもこれまで前例がない、朝廷が幕府に対して行った政治的な申し入れは、幕府側からも特に問題とされることはなく、困窮した民衆に対する追加の支援が実現する形となった。天保8年(1837年)の天保の大飢饉時には、朝廷は今度は積極的に幕府に対して民衆の救済を要請するに至り、天明7年6月の朝廷から幕府に対する困窮した民衆に対する救済策実現要請は、朝廷が幕府の政治に意見を申し入れる前例となっていった。
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