征東使の派遣と、それを巡る混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:47 UTC 版)
「宝亀の乱」の記事における「征東使の派遣と、それを巡る混乱」の解説
概要で述べたとおり、この事件は政府では大きな衝撃として受け止められた。天皇の現地代理人である按察使が殺害され、陸奥国府の多賀城を失陥したことは国家や天皇の権威を著しく損なうものだったからである。このため事件から6日後の3月28日には征東使の人事が行われ、中納言の藤原継縄を征東大使に任じ、次いで大伴益立、紀古佐美を征東副使とし、さらに出羽国に動揺が波及しないようにするための出羽鎮狄将軍として安倍家麻呂を任じた。しかし、藤原継縄は当初より現地に下向しようとしなかった。代わって軍を率いることになったのが、征東副使であった大伴益立である。 益立は天平宝字年間に雄勝城・桃生城を造営した際に鎮守軍監を務めており、現地経験も豊富であった。このため副将軍にして異例の節刀を授けられて赴任することになったのである。益立の赴任に際し、3月29日に陸奥守を兼任させ、ついで4月4日に正五位上から従四位下に昇進させた。さらに5月14日には坂東諸国及び能登国、越中国、越後国に対し軍糧の供出も命じられ、5月16日には進士(志願兵)を募る勅までも発せられている。しかし、征東使として派遣されながら益立らの現地での軍事行動は遅々として進展しなかった。5月8日に最初の報告があり、「まずは兵糧を蓄え、5月下旬に国府に入った後敵の機を伺い、然るべき時期に征討を行う」とする方針を伝えてからその後2ヶ月近くに渡り、連絡さえも途絶えてしまったのである。これに対し光仁天皇は、6月28日に書状または軍監以下の者を遣わして実情を報告するよう強く命じるに至った。その結果7月下旬以降にあらためて武具や軍糧を多賀城方面に進発させるよう、東海道・東山道諸国に命が出されている。これにより9月以降に征夷がなされる見通しが立ったものの、最初の反乱から半年近くの時間を空費することになったのである。 しかし、政府側の混乱はさらに続く。乱からおよそ半年後の9月23日、参議であった藤原小黒麻呂が正四位下の位を授けられ、持節征東大使に任命された。節刀を授けられるのは天皇の代理人であることの証であるため、一つの征討使の中に二人以上ということはあり得ず、この時に赴任しなかった前征東大使藤原継縄だけでなく、副使大伴益立の節刀も褫奪されたとみられる。 結局のところ大伴益立が具体的な軍事行動に着手できなかったのも、人員、軍糧、武具のいずれもが不足していたからであると考えられている。更に副使でありながら異例の節刀を授けられたものの、節刀を持たないながらも同格である副将軍紀古佐美を従えねばならず、益立の指揮官としての権威は不十分であった。益立を更迭し高位高官の藤原小黒麻呂をあらためて征東大使に任じた背景には、このことを考慮した可能性が考えられる。結局益立は征東副使から更迭されたばかりか、翌年の天応元年(781年)5月27日には陸奥守も紀古佐美に交代させられ、9月26日には従四位下も剥奪される処分が下されてしまった。彼の死後、名誉が回復され従四位下に復されるのは実に56年後の承和4年(837年)、益立の子である大伴野継の熱心な訴えによってである。 しかし、代わった藤原小黒麻呂による軍事行動も難航することになる。小黒麻呂の着任後とみられる10月22日には「今年は征討すべからず」と奏上しているが、光仁天皇はこれを厳しく譴責し、10月29日にあらためて征夷の実施を厳命している。これにより小黒麻呂も具体的な行動に着手せざるを得なくなり、12月10日には2,000の兵を動員して、「鷲座・楯座・石沢・大菅屋・柳沢等の五道」を塞ぎ、「賊」の要害を遮断したと報告している。
※この「征東使の派遣と、それを巡る混乱」の解説は、「宝亀の乱」の解説の一部です。
「征東使の派遣と、それを巡る混乱」を含む「宝亀の乱」の記事については、「宝亀の乱」の概要を参照ください。
- 征東使の派遣と、それを巡る混乱のページへのリンク