征服王朝時代の法(遼代から元代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 10:30 UTC 版)
「中国法制史」の記事における「征服王朝時代の法(遼代から元代)」の解説
唐の衰退と滅亡をきっかけとして、中国北方の遊牧民族は中国本土へと勢力を拡大し、「征服王朝」と呼ばれる国家を形成した。 916年に契丹人が建国した遼の支配領域は北方辺境にとどまり、漢民族の宋に対し軍事的優位には立つも、おおむね和平関係を崩さなかった。 遼は、遊牧民と農耕民を分けて治める二元的統治体制をとり、法も当初二元的な構造をもった。中期以降には漢化を進める方向での一元化が行われ、法典の編纂が試みられた。1036年に国が始まって以来の法令を編纂した『重熙新定条制』が完成し、修正が加えられながら、国家の統治の基本となっていった。しかし、この遼の「条制」が後の金や元の法制度にどの程度の影響を与えたのかは不明である。 女真人が1115年に建国した金は、1125年に遼を滅ぼし、1127年には北宋を滅ぼした。 華北を支配下においた金においては、唐律を事実上の基本法典とし、皇帝の単行指令を集めた「制書」「条理」「制条」などの総称である「制」を副次法典とする構造が成立した。 この構造を一変させたのが12篇・30巻・563箇条からなる『泰和律』だった。『泰和律』は、1190年(明昌元年)に制定が計画されてから、1201年(泰和元年)に施行されるまで10年以上を要した。唐の律令体制への回帰を目指したものであり、律疏にあたる『泰和律義』のほかに『泰和令』や、格・式にあたる『新定勅条』『六部格式』も併せて制定された。『泰和律』は唐律と同じ12篇目で構成され、『金史』刑法志に「実は唐律なり」と記されていることから、唐律と同じ内容であったと考えられる。しかし他方同書は、唐律のうち社会情勢に適さない47箇条を削り、金制149条を取り入れたとも記している。唐律のままでは社会の変化に対応できないことを認識し、かなりの手を加えた。基本法典としての律令を重視しつつ、現実に適合する法制を整備するという姿勢を指摘しうる。 金を滅亡させたモンゴルでも『泰和律』は使われ続けた。『泰和律』の使用が禁じられたのは、国号を元に定めた1271年(至元8年)のことである。それまで、中央政府の刑事裁判では、「法司」と呼ばれる担当官が『泰和律』に基づいて刑罰を審理し、意見を具申していた。この意見を踏まえたうえで刑罰を加減しながら、具体的案件に対応していた。『泰和律』の使用禁止後に編纂された『至元新格』行政分野の規範を記したもので、刑罰規定を含まなかった。 元では律令の基本法典は編纂されなかったが、これ以降も律令法の要素を受け継いだ裁判が行われた。1323年(至治3年)に施行された『大元通制』と、これを増補改訂した『至正条格』は、主にそのような法源を集成したものである。
※この「征服王朝時代の法(遼代から元代)」の解説は、「中国法制史」の解説の一部です。
「征服王朝時代の法(遼代から元代)」を含む「中国法制史」の記事については、「中国法制史」の概要を参照ください。
- 征服王朝時代の法のページへのリンク