征服地での残虐行為
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:40 UTC 版)
遠征の時、ティムールは抵抗する敵を追い詰めるためにしばしば焦土作戦を用いた。戦闘の前に都市へ降伏を勧める使者を送ったが、交渉が決裂すると都市は虐殺と破壊の対象とされた。軍隊の突入の前に警告が発せられ、その後に残った住民と守備兵の虐殺、拉致、略奪、城壁の破壊が行われた。1383年のスィースタン遠征においてティムールは灌漑施設を破壊し、ティムールの破壊行為は長期にわたってスィースタンの発展を遅らせた原因として見なされている。 征服地から得られる利益を確保するため、原則的にティムール軍は兵士に征服地での略奪、強姦を禁じていた。しかし、征服地で反抗の兆候が見られると、ティムールは恐怖を植え付けるために大量虐殺を行い、住民を服従させた。ヘラート、イスファハーンで行われた「見せしめ」のための虐殺、デリーでは自軍の安全を保障するための虐殺が行われた。非イスラム教徒に対しては虐殺そのものを楽しんでいた傾向もあった。 大人だけでなく、子供もティムールの大量殺戮の対象に含まれた。1400年にスィヴァスを攻撃した際に、スィヴァスの住民は子供たちの合唱団を市外に送り出し、歌声で同情を引こうとした。しかし、ティムールは子供たちを殺害した。ダマスカス占領の際には約10,000人の幼児を捕虜とし、退去の時に幼児たちの親は我が子の釈放を求めたが、ティムールの命令によって幼児たちは全て軍馬に轢き殺された。部下の一人はティムールの行為を諌めたが、ティムールは「彼らに対する慈悲の思いが湧かなかった」と答え、意に介さなかったという。 サイイド(預言者ムハンマドの子孫)、ウラマー(法学者)、カーディー(裁判官)といったイスラームの知識人は、虐殺の対象から外され、イブン・ハルドゥーンのように厚遇を受けた者もいた。また、交易の振興のため、商人を中心とする都市の貴族層と従者も助命された。
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