市営発電所建設の試み
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「静岡市営電気供給事業」の記事における「市営発電所建設の試み」の解説
東京電灯(東洋モスリン)からの2,000 kW受電が実現しなかったため、市では旧四日市製紙の電気事業を引き継いだ静岡電力と交渉し、1923年6月、同社からの受電高を従来の2,000 kWから3,000 kWへと引き上げると決定した。受電増加は翌1924年(大正13年)1月に逓信省より認可を得ている。この静岡電力では、受電増加に先立つ1922年12月に鳥並発電所(出力1,060 kW)の運転を開始していた。同発電所は大久保発電所の上流側、富士郡柚野村鳥並(現・富士宮市鳥並)に位置する。 電源の増強に歩調を合わせて供給成績も伸び続けており、取付灯数は1925年度に10万灯へ到達、電力取付kW数は1923年度に2,000 kWを超過したのち1929年度(昭和4年度)に3,000 kWも超えた。この間電灯料金は据え置きであったが、1921年7月・1925年6月・1928年(昭和3年)2月の3回にわたって電力料金が引き下げられ、特に1925年6月の改訂では電力料金にも従量制が加えられた。需要増加はこうした料金の動向を反映したものでもある。ただし、1926年(大正15年)ごろの時点では供給力不足のため電灯の点灯時間に動力用電力の送電を休止したことから、操業に支障を来すとして電力需要家の不満が溜っていたという。不満を持つ電力需要家178名が連名にて市内供給権を持つ東京電灯に供給を懇請したところ東京電灯は供給に踏み切る構えをみせたが、同社の市内供給は前述の通り1926年8月に市と締結した協定によって市内の小区域に限定された。 静岡電力においては、鳥並発電所に続いて1924年2月より静岡火力発電所の運転を開始した。同発電所は出力2,000 kWの火力発電所で、静岡清水線音羽町駅の西側に位置した。続いて1926年2月からは朏島発電所(みかづきじま、出力632 kW)の運転を開始した。同発電所は芝川筋発電所の中で最下流、富士川の合流点よりも下流側に位置しており、芝川からの取水以外にも川合発電所の放水や富士製紙芝川工場の放水・余水も活用して発電する。所在地は富士郡芝富村羽鮒(現・富士宮市羽鮒)。朏島発電所の運転開始から間もなくして静岡電力は東京電力に合併され、その東京電力も1928年4月に東京電灯へ合併されたため、芝川筋の鳥並・大久保・川合・朏島各発電所はすべて東京電灯の手に渡った。合併後の同年11月、市では昼夜とも3,000 kWを受電中の東京電灯から夜間のみ1,000 kWの受電増加をなすと決定。翌1929年5月末に逓信省より夜間4,000 kWへの受電変更認可を得た。 こうして市営供給事業の受電依存は1920年代も続いたのであるが、その一方で、事業の基礎を確立するためには市営発電所が必須であるとの意向を持ち続けた。そのため1924年6月、計画を放棄した藁科川に代わって今度は大井川支流寸又川の水利権を出願した。出願地点は寸又川のうち榛原郡上川根村(現・川根本町)の千頭字木代峠から同村奥泉字大代山に至る区間で、発電力は最大5,080 kWの予定であった。市会でも1925年10月全会一致で市営発電所建設の建議を可決し、市民大会を開くなど水利権獲得を支援した。しかしながら寸又川水利権は寸又川水力電気(後の大井川電力)や森村開作ら(第二富士電力発起人)という競願者があり、競願者に許可が下りて静岡市の出願については1928年2月静岡県より不許可を通知された。ただし寸又川水力電気・第二富士電力に対する水利権許可には、静岡市が要求する場合は発生電力の一部(寸又川水力電気は最大5,000 kW、第二富士電力は最大2,500 kW)を市へ原価にて供給すべしとの付帯条件が付された。 寸又川に続き、市では安倍川本流での発電所建設に関しても調査を開始し、1928年12月水利権を出願した。こちらについては1930年(昭和5年)5月に許可を得ている。続いて市会での審議を経て11月に安倍川に4つの市営発電所を建設する旨の工事実施認可を逓信省に申請した。その内容は、第一期工事として総工費443万円を投じて下流側の第一・第二両発電所(大河内村所在、出力計8,520 kW)を建設、次に第二期工事として総工費154万5000円を投じて上流側の第三・第四発電所(梅ヶ島村所在、出力計4,050 kW)を建設する、というものであった。
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