巨大トラス橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 10:18 UTC 版)
以上のような経緯で、本橋梁は無橋脚、1径間での渡河に適した長大な曲弦プラット分格トラス桁として架設されることとなり、その設計は当時の日本を代表する橋梁設計の大家であった関場茂樹の手に委ねられた。 もっともこの時代、この巨大橋梁が必要とする長さと厚さを備えた大型鋼材は日本国内に市中在庫が存在しなかった。また日本国内で唯一、その種の鋼材の製造供給が可能と目されていた八幡製鐵所では当時軍用、特に軍艦用の需要を満たすのが精一杯で、発注後必要な納期にそれらを得ることもできなかった。 そのため、関場ら設計陣は設計着手後間もない1927年10月末までに最優先で必要部材の一覧表を作成、部材調達を請け負った浅野物産とアメリカ有数の大手製鋼メーカーベスレヘム・スチールが東京に設けていた支店の連携によって、全体の83パーセントにあたる約1,500tの鋼材の注文書をアメリカのベスレヘム・スチール社本社へ打電、可能な限り速く国内で入手が不可能な部材を調達する手配を行った。 これは、折良く日本へ向かう船便に恵まれたことから、発注後2ヶ月半で大半の部材が神戸港へ入荷するという、当時の日米間貨物輸送体制では最良に近い成果を得た。なお、本橋梁の主部材はこのようにベスレヘム・スチール社からの輸入に拠ったが、それ以外にもUSスチール・プロダクツ社と八幡製鉄所から鋼材供給を受けている。 だが、最大の難問であった鋼材納入について最良の結果を得たと言っても、その時点で絶対的な工期の不足がほぼ致命的な水準に達していたことに変わりはなかった。国内で調達可能な補助部材については先行して調達と加工を実施するようにしたものの、主要鋼材到着後にそれらを工場で加工し、工場で一旦仮組みした後に分解、輸送し現場で再度組み立てるという、大規模構造物建築で常識とされる手順を踏んでいたのでは、1928年1月の鋼材到着後、1928年11月に予定された御大典までの10ヶ月に満たない短期間でこの橋梁を完成させ、路線そのものの開業にこぎ着けることは到底不可能であった。 そこで関場らは、実際に橋桁の製造を担当する川崎造船所兵庫工場(本橋梁工事中の1928年5月18日付で川崎造船所から独立、川崎車輛兵庫工場となる)での仮組工程を省略し、加工済み部材を現場にて直接組み立てることを決断した。 仮組を省略した場合、その分の所要時間を節約できるが、その反面、部材の切断ミスや接合用リベットのために予め開口された鋲孔のずれなどがあった場合、それらの修正のために架設工事全体が大きく遅れ、仮組を実施するよりもかえって時間がかかってしまう危険がある。そのため、川崎造船所で実際の桁製造を監督することになった阪根繁三郎技師はその部材製作工程の管理および工作精度の維持に細心の注意を払うことを強いられ、また設計を担当する関場らもミスが一切許されないため、本橋梁に関する各種図面の精査に追われた。
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