山県昌景(やまがた まさかげ) 1529?~1575
◇子:山県源四郎昌満、上村左兵衛昌久 養子:山県善右衛門(三枝守友)
甲斐・武田氏の四名臣の1人。兄(実母弟とも)飯富虎昌が謀反を起こそうとした際には、これを当主信玄に知らせて信任を得た。その後、譜代の名家で誅絶していた、山県河内守虎清の跡を継いだ。軍装を赤で統一した部隊を率いて、諸戦で戦功を挙げ、駿河侵攻後は駿河・江尻城代となる。特に城攻の短期決戦はお家芸との定評があった。また軍事だけではなく、内政、外交等あらゆる面で手腕を発揮した。三方ヶ原の戦いでは先鋒を務めて徳川軍を攻撃、家康に死を覚悟させた程の働きを見せる。信玄の信頼厚く、その死に呼ばれ“明日は瀬田の唐橋に旗を立てよ”と遺命されたという。しかし、長篠の合戦において自重を進言するが容れられず、敵中突撃して銃弾を受け、馬上にて戦死。
山県昌景
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山県 昌景/山縣 昌景(やまがた まさかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には武田四天王の一人に数えられる。
- ^ a b 丸島 2015, p. 217
- ^ 『諸州古文書』 - 655
- ^ 平山 2008, p. 339.
- ^ 丸島 2015, p. 682.
- ^ 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年、p683
- ^ 鴨川達夫『武田信玄と勝頼』岩波新書、2007年
- ^ 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007年
- ^ a b c 丸島 2015, p. 684
- ^ 平山 2014, pp. 210–211.
- ^ 高柳光寿『長篠之戦』春秋社、1960年
- ^ 平山 2014, p. 224.
- ^ 平山 2014, p. 239.
- ^ 平山 2014, pp. 240–243.
- ^ 平山 2014, p. 243.
- ^ 平山「山本勘助・菅助研究の軌跡」山梨県立博物館監修・海老沼真治編『「山本菅助」の実像を探る』戎光祥出版、2013年、p.43
山県昌景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 03:06 UTC 版)
武田家家臣。武田氏の強さを盲信し、周囲を過小評価する勝頼をたびたび諌めるが聞き入れられず、それどころか逆に邪険にされてしまっていた。長篠の戦でも自身の立てた戦術も従来の戦術に固執する勝頼に却下され苦戦を強いられる。武田軍の中で唯一織田・徳川軍の弱点(馬防柵の切れ目)を見抜き、乾坤一擲の突撃を仕掛けるも、織田軍の一斉射撃を受け戦死。
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山県昌景(声:吉水孝宏)
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「決戦III」の記事における「山県昌景(声:吉水孝宏)」の解説
「赤備え部隊」を率い、信玄、勝頼と二代に渡って武田家に仕えた勇将だが、信玄の跡を継いだ勝頼と意見が合わず疎まれている。「長篠決戦」の際、真っ先に織田軍の本陣に突撃をかけるが、銃弾を浴びて戦死する。
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山県昌景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 21:07 UTC 版)
武田四天王の一人。双頭の矛を構える野性味溢れる武将。赤備えの部隊を率いる、本編でも武田家の武将として登場している。
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山県昌景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:47 UTC 版)
甲斐武田氏の家臣で、武田四名臣の一人。身長は130cmから140cmと小柄で、体重も軽く、痩身で兎唇の醜男だったと言われている。
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