山梨県立甲府南高等学校開校事務担当(参事)時代・校長時代
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「日向譽夫」の記事における「山梨県立甲府南高等学校開校事務担当(参事)時代・校長時代」の解説
日向は、1962年に、山梨県教育委員会参事(新設高校開校事務担当)となり、翌年1963年に開校する山梨県立甲府南高等学校の設立の責任者となった。日向は、これまでの英知と情熱を結集して、総力をあげた。既成の概念にとらわれずに、教科の学習指導においては、具体的に、当時めずらしかった、英語科のLL教室の導入、数学科のシンクロファックス導入、理科ではプログラム学習などを行った。また、英語科では、LL教室を利用した、それぞれ個別の学習化で分かる授業の実践を職員に求めた。ただ、視聴覚教材の導入には、財政的にも大変であったが、職員の希望を金がないから駄目だとむげに断ったということはなかった。さらに、運営の面では、校務分掌の硬直化の排除、学校事務の能率化など、つぎつぎに新しい、アイデアを出して、実践した。日向は当時、「課長時代に高校現場の指導や助言したことを、実際の学校運営で実践実行していく」と述べた。だが、当時の甲府南高校は、地域社会の評価が低く、劣等感学校などと思われていた、しかし、日向は、「それは我々教師の怠慢であり、教育的大悪を犯すことである」と考え、「誇りをもって入学し、誇りをもって卒業して行ける学校に育てること」を念願した。そして、甲府南高校の教育環境を県内一に揃えた。そして、1966年には、外国語教育部門で読売教育賞を受賞した。生徒に対しては、いつも生徒の前で学生の奮起を期待して「Frontier Spirit」を多用した。開校当初、率先して麦わら帽子を被って校庭の雑草を刈ったり、石拾いを拾ったりもしていた。ある日、生徒たちが石を拾っていると、日向が、生徒に、友達の様に笑いながら、「君達は恵まれているよ。こんなに環境の良いところで勉強出来るんだからな。見たまえあの富士を。君達は、あの富士のてっぺんに向かって登り始めたところなんだ。楽しいじゃないか」と話した。また、生徒のことを「ぼうたち」と呼び、愛着をこめていた。ただ、創立4年目の初夏の第1回緑陽祭(甲府南高校の学園祭)で、佐古純一郎の「日本近代におけるキリスト教精神の展開と文学のかかわり」についての話があった。だが、生徒たちにとって距離が遠い内容であった。体育館は、生徒の声で、ざわざわしていた。講演終了後、日向は、教員に対し、生徒をその場に残しておくようにと指示をした。そして、日向が講師を送り出したあと、間もなく、立ち戻ると、つかつかと壇上に上り、講演の聞く態度のなっていなかったことを厳しく注意した。さらに、佐古氏の講演内容を実に、的確に要約した。そこで、日向は、生徒らに、「これだけの豊かな話に知的好奇心をかきたてられないような青年は、大学で学ぶ資格はない。諸君は本校の灰色の受験体勢についての不満をよく口にするが、受験生活についての悩みを真剣に悩んだことがあるのか。灰色なら灰色らしく悩めっ!(『ハイ〔灰〕スクール』というならハイスクール生らしく悩め)」と叱責した。その場は粛然となった。
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