実用化と開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:06 UTC 版)
「メッサーシュミット Me163」の記事における「実用化と開発」の解説
Me163誕生のきっかけは1938年、ドイツ滑空機研究所のアレクサンダー・リピッシュが製作した無尾翼モーターグライダー機DFS 39に、ヘルムート・ヴァルターの開発する高濃度の過酸化水素を主成分とするT液とヒドラジンとメチルアルコールを主成分とするC液を使用するHWK-R1ヴァルター式ロケットエンジン搭載テストをドイツ航空省が申し入れたことによる(逆にリピッシュ側から売り込んだとする資料もある)。このロケット機はDFS 194と命名されると、1939年1月、空軍の計らいで部下10名を引きつれてメッサーシュミット社に入社したリピッシュは、自らの頭文字から命名したL部門なるロケット機開発部門を組織して製作にあたることになった。 ハインケル社によって同時期に開発が進められていたHe 176は1939年6月に初飛行を成功させたものの、ドイツ航空省からは開発打ち切りを告げられている。これに対しDFS 194はメッサーシュミット社で開発が続けられ、1939年末に初飛行を成功させるとドイツ航空省は続いて試作機3機の発注を行い、これらにはMe 163AV1〜V3という制式名称が与えられた。ロケット戦闘機開発においてハインケル社とメッサーシュミット社で明暗を分けた形になった。このことには多分に政治的な理由も考えられるが、He 176の直線翼などの従来の航空機とあまり違いのない設計に対し、無尾翼機というリピッシュ博士の設計の先進性が発注の理由となったとも考えられる。 DFS 194の改良型であるMe 163Aは、1941年の滑空テストではダイブ時に最大速度855.8km/hを記録して空力的な設計の確かさを証明すると、遅れて完成したHWK-R2-203を搭載してロケット飛行を成功させた。1941年10月のテストでは最大速度1,011km/hを記録した。この当時としては破天荒な高速性能を受け、ドイツ航空省は実用化を決定し先行量産型Me 163B-0を70機発注した。 研究機の域を出ていなかったMe 163Aに対し迎撃戦闘機としての実戦配備を前提とされたMe 163Bは、Me 163Aと機体サイズはさほど変わらないものの全面的に再設計が行われた。ロケットエンジンの強化、燃料タンクの大型化、無線装置など諸装置の設置、機関砲の搭載などが行われ、制式番号は同じものの全く別の機体である。ロケットエンジンの開発は遅れていたが、1942年4月にはMe 163B-0の1号機が完成した。ところが開発者であるリピッシュ博士とメッサーシュミット博士は意見の違いから衝突を繰り返し、1943年5月にはリピッシュ博士は部下と共にメッサーシュミット社を退社してしまう。だがその後も開発はメッサーシュミット社のスタッフによって続けられた。リピッシュ博士はその後オーストリアのウィーン航空研究所の所長に就任して無尾翼機の研究を続け、彼の提唱したデルタ翼機は第二次世界大戦後のジェット機開発に大きな影響を与えることになる。
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