宗教・民族
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イスタンブールは多くの歴史を通じて国際的な都市であったが、オスマン帝国の終わり以来均質化されてきている。それでもトルコの少数民族のほとんどは集中してイスタンブールに残っている。トルコ国内やイスタンブールの大多数の人たちは自分たちをムスリムと見なし、より明確にはスンナ派の信徒である。ほとんどのスンナ派の信徒はハナフィー学派を信奉し、約10%のスンナ派の信徒はシャーフィイー学派を信奉している。450万人のトルコ人の非スンナ派を数え、これらはアレヴィー派である。トルコ国内のアレヴィー派の3分の1はイスタンブールに居住している。スーフィズムのような神秘主義はトルコ共和国の建国後、公式に禁止されたが今でも多数の信者を誇っている。 コンスタティノープル総主教は6世紀以来、総主教に定められ、「エキュメニカル総主教」(全地総主教)という称号を持つ3億人の正教会信徒の指導者として広く見なされている。1453年まではアヤソフィアを総主教座としていたが、アヤソフィアがオスマン朝に接収されてモスクとなって以後は、パンマカリストス修道院付属教会(現在のフェティエ・モスク)などを転々としたのち、1601年以降は旧市街北部・フェネル地区の聖ゲオルギオス大聖堂を基盤にしている。19世紀に入るとイスタンブールのキリスト教徒は正教会かアルメニア正教会(非カルケドン派)いずかれの信徒である傾向があった。1923年のトルコとギリシャの住民交換や1942年のヴァルリク・ヴェルギシ(英語版)(富裕税)、1955年のイスタンブール暴動(英語版)など20世紀の多くの出来事により、フェネル(英語版)やサムティア(英語版)を中心としていたギリシャ人の人口はかなり減少している。1919年には35万人、1923年には13万も居たイスタンブールのギリシャ人は21世紀初めには3,000人に減少している。 トルコのアルメニア人(英語版)の人口はアルメニア人虐殺により部分的な減少を見たが、最近のアルメニアからの移民により戻って来ている。1913年には164,000人のアルメニア人がイスタンブールに居たが今日では50,000から70,000人のアルメニア人が居る。 最大の少数民族はクルド人コミュニティで、トルコ東部や南東部を元にしている。市内のクルド人の存在はオスマン時代初期に遡るが、イスタンブールへのクルド人の流入は1970年代後半のトルコ・クルド紛争とクルディスタン労働者党により加速し始めている。200万から400万人のクルド人がイスタンブールには居住し、イスタンブールは世界の他のどの都市よりもクルド人が住んでいることを意味している。 ボラト(英語版)地区はかなりのセファルディムコミュニティが暮らしており、最初に形成されたのはスペイン異端審問の時代に遡る。ロマニオットとアシュケナジムはセファルルディムよりも前にイスタンブールに同様に居住していたが、その割合は減っており今日ではアシュケナジムはイスタンブールのユダヤ人のほんの1%だけである。イスラエルへの移住によりユダヤ人の人口は全国的に減少し、1950年の100,000人から2005年には18,000人に減少している。大部分はイスタンブールかイズミルに居住している。レヴァンティン(英語版)はオスマン期にガラタに居住したカトリック教徒で、19世紀から20世紀初期のイスタンブールの文化や建築を形作るのに重要な役割を担った。彼らの人口は減っているが今でも少数が市内に残っている。
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宗教・民族
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