安保闘争、ベ平連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 05:21 UTC 版)
1960年5月20日、新安保条約が強行採決される。翌5月21日、東京都立大学人文学部教授の竹内好は強行採決に抗議し、辞表を提出した。5月30日には鶴見も、「岸内閣が多数暴力をふるって新安保を抜き打ち承認したこと、とくにさる28日の記者会見における岸首相の非常識な発言」などに激しい憤りを感じたとして、東京工業大学に辞表を提出した。同日、新聞の取材に鶴見は「私は竹内さんを戦後エッセイを通じて知り合い尊敬していた。その人があのような理由で大学をやめられたことは大きなショックだった。辞任の決意はそのとき決まったといえる。〝竹内さんに続いた〟といってようだろう」と答えた。 同年6月4日、小林トミらによって「声なき声の会」の最初のデモが行われ、鶴見と政治学者の高畠通敏は国会で合流。以後、声なき声の会はデモを重ね、岸内閣による日米安全保障条約改定に反対した。同年秋、横山貞子と結婚。うつ病を再発し、新婚の妻と別居。 1961年、同志社大学文学部社会学科教授。1962年から一時期、脳軟化症で自宅療養生活を続ける父・祐輔の介護のため、東京都練馬区関町にあった父の自宅で父と同居。 1965年2月7日、アメリカが北ベトナム爆撃(北爆)を開始。反戦運動が高まる中、同年春、高畠は京都にいる鶴見に「北爆に対し無党派の市民として抗議したいが、『声なき声の会』では小さすぎる。政党の指令を受けないサークルの呼びかけで、ベトナム戦争を支援する日本政府に抗議するデモをやろう」と電話をかけた。鶴見と高畠は東京で小田実と会い、同年4月24日に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」(のちの「ベトナムに平和を!市民連合」)を結成した。 1966年6月にはベトナム北爆に抗議して在日アメリカ大使館前で座り込みを行った。1967年には横須賀に寄港した空母イントレピッドからの脱走兵2人を東京・練馬の父の家に匿い、のち京都の自宅に移し、スウェーデンに送る。1970年、大学紛争での警官隊導入に反対して同志社大学教授を退職。 1976年には、桑原武夫、多田道太郎、井上俊、津金沢聡広らと現代風俗研究会を創設(桑原が初代会長)。 1984年発行の『架橋-私にとっての朝鮮』飯沼二郎編著(麦秋社)の中で、吉田清治について「あの、独力で韓国に強制連行の謝罪碑を建てた人でしょう。(中略)碑の前で土下座して韓国人に謝罪すると、やっぱり悪罵を浴びせられるということが出ていますね、当然だと思うけれども、そのために謝罪碑を建てたっていうのは偉いですね」と述べた。
※この「安保闘争、ベ平連」の解説は、「鶴見俊輔」の解説の一部です。
「安保闘争、ベ平連」を含む「鶴見俊輔」の記事については、「鶴見俊輔」の概要を参照ください。
- 安保闘争、ベ平連のページへのリンク