子供と余生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 23:18 UTC 版)
「見性院 (山内一豊室)」の記事における「子供と余生」の解説
一豊との間には一人娘の与祢が生まれたが、長浜地震により夭折した。それ以降は夫妻は子供には恵まれず、捨て子を拾って育てた。この子がのちに妙心寺で修業を積んだ湘南宗化である。湘南は長浜城下で妾の子として産まれたとされる(『三安漫筆』)、与祢姫の供養のための妙心寺参りの門前、あるいは山内家の京都屋敷で見性院に拾われたとの言い伝えもある(『三安漫筆』)。養子にして後継に定めようと考えたが、素性もはっきりしない名門でもない者を養子とすることは、山内家の将来に瑕瑾を残し家も安泰でないと考え(『見性院記』)、京都の妙心寺に入れることになった。 一豊は弟康豊の子・忠義(幼名・国松)を土佐山内家跡目養子にしていた。見性院は夫・一豊が慶長10年(1605年)秋に死去すると、康豊に忠義を後見させて半年後には土佐を引き払い、湘南宗化のいる京都の妙心寺近くに移り住み、湘南宗化と再会を果たす。1000石の隠居料を得て、そこで余生を過ごした。この上洛には、一豊の妹が、京都所司代前田玄以の家臣松田政行に嫁いでいたこと、その政行が、一豊のもう一人の妹の子を養子としていたことなどや、一豊が妙心寺に塔頭の大通院を起こしていたり、忠義の婚礼の際に夫婦そろって上洛していることなども主な理由として挙げられる。見性院は隠居後上洛しても、豊臣、徳川両家に対してこまめに働きかけた。養嗣子忠義に、無聊を戒める手紙の中で、徳川幕府への忠誠を忘れないようにと諭し、同じ手紙の中で、高台院に土佐の山茶花を送るようにとも書いている。 晩年は、母から贈られた『古今和歌集』『徒然草』などを熱心に読んで過ごしたとされる。死去に際しては宗化がその最期を看取り、本人の遺言により、料紙箱や所有している和歌集が山内忠義へ贈られた。これらの和歌集は、後に幕府に献上されている[要出典]。 元和3年(1617年)12月4日、山城国(京都)で死去。享年61。一豊の墓所は高知県高知市の山内家墓所。湘南和尚の居た京都妙心寺に山内一豊夫妻の廟所がある。寛永10年(1633年)、湘南は見性院の十七回忌に当たり、見性閣を営んで義母の恩に報いた。現在の大通院の境内に残る霊屋は、その時に建てた物であり、一豊夫妻の無縫塔と夫婦揃って祀られている。 なお、一豊・千代夫妻にちなんだご当地サミットが、夫妻にゆかりのある滋賀県や愛知県、岐阜県、高知県などで開催されているが、そもそもは1994年(平成6年)の掛川城天守閣復元に伴って始まったもので、呼びかけ人である当時の掛川市長榛村純一によれば、浪人の身から土佐国主にまで登り詰めた一豊の足跡を見ることで、町づくりや人づくり、歴史教育や都市間の交流に役立てるのが狙いとされている。これにより「功名が辻」の大河ドラマ化や郡上八幡城近くの、一豊夫妻と馬の像の建設も実現した。
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