大聖遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 17:03 UTC 版)
「アダーラト・ハーネ」はしかし、いつまでも設置される気配がなかった。政府は改革を先延ばしすることで、さまざまな集団からなる反対派の勢力を削ごうとしたのである。タバータバーイーらのシャーへの書簡も言を左右にして無視された。説教師ジャマーロッディーン・エスファハーニーやシェイフ・モハンマド・ヴァーエズらの反政府説教は過激さを増し、不満は夏に近づくにつれて高まっていた。6月に反政府煽動として逮捕・拷問を加えられる者が出た。これを受けてタバータバーイーは「シャリーアのアダーラト・ハーネ協議会」(マジュレセ・シューラーイェ・アダーラトハーネ مجلس مشروعه عدالتخانه)を求める長大な演説を行っている。しかしタバータバーイーはいまだに「立憲制」は時期尚早と否定している。 7月11日、大宰相エイノッドウレは両説教師の逮捕を命じた。ここに再び不満は爆発し、群衆は両者の擁護のために騒乱状態となった。この中で若いセイイェドが発砲した王兵からシェイフ・モハンマド・ヴァーエズを守るために身を挺し死亡する事件がおこった。人びとはセイイェドの遺体とシェイフ・モハンマドを伴いマスジェデ・シャーへとバスト。これにタバータバーイー、ベフバハーニー、さらには保守派高位ウラマーであるシェイフ・ファズロッラー・ヌーリーら有力ウラマーや商人が加わった。群衆はさらにセイイェドの血染めの衣服とターバンを掲げて街に出ようとするが、待ちかまえた王兵が一斉射撃によって阻止した。このときの死傷者にもセイイェドがいた。王兵に包囲されて水と食糧を断たれ、預言者の後裔が打ち倒されるさま。それは人びとにとってまさにシーア派の3代イマーム・フサインらがウマイヤ朝軍によって飢餓の中に倒れたカルバラーの殉教を思い起こさせるものであった。もはや政府は、シーア派にとっての不正なる圧制者たるウマイヤ朝と同一視されるに至ったのである。 7月15日、ベフバハーニーは食糧の不足によって政府に屈することを良しとせず、ウラマーのみでイラクのアタバート(聖廟諸都市)へとさらにバストすることを決断したとして、大部分の人びとを解散した。翌日、ウラマーらは遠隔に過ぎるアタバートではなく、近傍の宗教都市ゴムへ目的地を変更して出発した。再びこれは聖遷になぞらえられ、ウラマーたちはムハンマドに付き従ってメディナに移った人びとを指す「ムーハジルーン」の名で呼ばれる。7月19日、彼らがゴムに近づくと、テヘランではこれに呼応して、商人らがバーザールを閉鎖して、商人・職人らは退去して、イギリス公使館へとバストしたのである。公使館もやはり治外法権の地であり、バスト地となったのである。一連の諸事件において決定的であったのは、このテヘラン・イギリス公使館でのバストであった。参加者は8月4日までに14,000人を超えるという大規模なものとなり、テヘランの商業・生産活動は完全に停止した。 公使館敷地内では、人びとが所属する組合が大商人からの食糧の頒布を行い、また組合別にテントに集まり、さまざまな論議を行っている。イギリスは終始反政府派擁護の立場は見せなかったが政府との交渉の仲介にはあたった。7月23日の当初要求は、大宰相の罷免、「アダーラト・ハーネ」の設立、ウラマーの帰還であった。しかし大宰相エイノッドウレは「アダーラト・ハーネ」は設立済みとして拒否した。26日にかけてのさらなる交渉の過程で「アダーラト・ハーネ」の要求は唐突に選挙による国民協議会設立へと変容する。今日につながる国民協議会(マジュレセ・シューラーイェ・メッリー)はこのとき初めて現れるのである。大宰相はこれを受けて、自身の罷免要求取り下げと引き替えに議会設立を容認し。ここにテヘランの商人らと政府の間での合意が形成されることになる。その背景には、アダーラト・ハーネの設立によるウラマーらへの政治介入による不利益を大宰相、商人とも嫌ったことがあった。 ゴムにバストしたウラマーらにこの合意について伝えられたのは数日後のことであった。政府は国民協議会設立を「アダーラト・ハーネ」の設立であるとウラマーらに伝えた。さらに同時期7月29日に、大宰相エイノッドウレは軍への給与未払などで権力基盤が急激に弱体化し辞任に追い込まれている。ウラマーらはテヘラン=ゴム間の電信線を切断され、事態の掌握に手間取っていたが、以上のことから全体的な勝利と事態を捉えた。議会を「シャリーアによって国政改革を行う機関」であるとする政府の説明を信じたのである。 8月5日、立憲勅書。10日、若干の紛糾と修正を経て最終的に発布した。同13日、テヘランのイギリス公使館バスト解除。同15日、ゴムのウラマーらがテヘランへ帰還。ここに立憲革命の第一段階が終了し、続く第一立憲制・第一議会期に移ることとなる。しかし反政府派は決して憲法と議会を求めた一枚岩の集団ではなかった。最終局面において、すでに議会に「シャリーア実施のための協議会」を求める人々がおり、「選挙による国民協議会」という西欧的な理想を見いだす人びともいた。第一議会の紛糾の萌芽は立憲革命の当初から内包されていたのである。
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