大発勢の出陣と那珂湊の戦いとは? わかりやすく解説

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大発勢の出陣と那珂湊の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:34 UTC 版)

天狗党の乱」の記事における「大発勢の出陣と那珂湊の戦い」の解説

江戸水戸藩邸を掌握した諸生党対し、激派・鎮派は山横目使って領内尊攘派士民小金宿千葉県松戸市)に大量動員し藩主慶篤に圧力をかけ交代したばかりの諸生党重役排斥認めさせ、水戸藩邸を再び掌握した。しかし、市川らによる水戸城占拠の報に接し国元奪還を図ることとなった。そこで、在府の慶篤の名代として支藩宍戸藩主の松平頼徳内乱鎮静名目水戸下向することとなり、執政榊原新左衛門(鎮派)らとともに8月4日江戸出発した。これを大発勢という。これに諸生党により失脚させられていた武田耕雲斎山国兵部らの一行加わり下総小金などに屯集していた多数尊攘派士民加入して1000人から3000人にも膨れ上がった大発勢は8月10日水戸城下に至るが、その中に尊攘派多数含まれているのを知った市川らは、自派失脚恐れ戦備整えて一行入城拒絶した。頼徳は市川交渉するが、水戸郊外対峙した両勢力戦闘状態に陥る大発勢はやむなく退き水戸近郊那珂湊ひたちなか市)に布陣した。筑波勢もこれに接近し大発勢に加勢する姿勢示した8月20日、頼徳は水戸城下の神勢館に進んで再度入城交渉を行うがまたも拒絶され22日全面衝突となった大発勢は善戦するが、意尊率い幕府追討主力25日笠間到着して諸生党方で参戦すると、29日には再び那珂湊後退した筑波勢の加勢受けた大発勢は、市川らの工作もあり筑波勢と同一視され幕府による討伐対象とされてしまう。大発勢内では、暴徒とされていた筑波勢と行動共にする事に当初抵抗もあったが、結局共に諸生党と戦うことになった。この合流によって、挙兵には反対であった耕雲斎も筑波勢と行動共にする事になる。 幕府追討軍・諸生党那珂湊包囲し洋上にも幕府海軍黒龍丸展開して艦砲射撃行った。頼徳の依頼受けて市川との仲介試みていた山野辺義芸幕府軍諸生党交戦状態に陥った末に降伏居城助川海防城攻撃受けて9月9日落城した。その後今度筑波勢の田中隊が助川海防城奪還し籠城したが、これも幕府軍攻撃受けて9月26日陥落した敗走した田中隊は、最終的に棚倉藩中心とする軍勢八溝山討伐され、そのほとんどが捕われ処刑された。 10月5日、「幕府真意訴え機会与える」という口実誘き出された頼徳が筑波勢との野合責任問われ切腹させられた。この時、頼徳の家臣ら1,000余り投降する。このとき降伏した榊原43名は後に佐倉藩古河藩などに預けられ数ヶ月後に切腹ないし処刑された。常陸宍戸藩改易処されたが、これは江戸幕府最後改易となった。また大名改易切腹宝永6年1709年)に江戸城内で刃傷事件起こした前田利昌以来、約155年ぶりであった天狗党の乱最大激戦地となった那珂湊は、民家社寺、その他大半を失う大打撃被った。この結果鉄製大砲鋳造していた那珂湊反射炉煙突大破し使用不能となった那珂湊反射炉藤田東湖尽力建設され経緯があることから、父が造った反射炉息子藤田小四郎)が破壊する結果となった

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