大発見の後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 20:10 UTC 版)
1833年、マンテルはブライトンに引越した。しかし、その時の彼は破産寸前であり、薬剤や器機も買えないため医師として活動することが難しくなっていた。そんな折、町の議会から自宅を博物館に改装して彼のコレクションを展示してはどうかと話を持ちかけられ、熱心な勧めもあって彼はそれを実行することにした。しかし、マンテルは入場料をサービスして無料にしてしまう癖があったため、博物館は結局経営が破綻した。そうして1838年、彼は自分の全てのコレクションを大英博物館に売らざるを得ない状況となり、それらは5000ポンドの提示に対し4000ポンドで売却されることとなった。その後は南ロンドンのクラハムコモン (Clapham Common) に移り、医師としての仕事を続けた。この後、マンテルにとって辛い出来事が続く。1839年、妻メアリーは彼を見限って出て行った。同じ年、息子ウォルター (Walter Mantell) はニュージーランドへと移住してしまう。さらにマンテルの傷心を深くしたのは、1840年の娘ハンナ (Hannah) の死であった。1841年、クラハムコモンで彼はひどい馬車事故に遭い、脊椎を損傷し手足が麻痺するようになってしまう。それでも身体の麻痺と絶え間ない痛みに耐えつつ研究を続け、死の間際までいくつかの本と論文を発表した。1844年にはピムリコ (Pimlico) に移ったが、そこで痛みを紛らわすためにアヘンに手を出した。1852年、マンテルは急性アヘン中毒に陥り昏倒し、その日の午後に亡くなった。検死の結果、彼の脊椎は歪曲しており、事故後ずっと痛みに苦しんでいたことがわかった。彼のライバルであったリチャード・オーウェンはマンテルの脊椎の一部を取り出し、王立外科医科大学の棚に保存していたが、第二次世界大戦のドイツ軍の爆撃によって行方不明となった。 現在、マンテルはウェスト・ノーウッド墓地 (West Norwood Cemetery) に葬られている。2000年、彼の発見と古生物学界に与えた功績を称えてクックフィールドのホイットマンズ・グリーンにマンテルの記念碑が設立された。その場所こそ、マンテルが1822年に初めてイグアノドンの化石を発見した場所である。
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