大内氏遺跡とは? わかりやすく解説

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大内氏遺跡
附 凌雲寺跡

名称: 大内氏遺跡
 附 凌雲寺跡
ふりがな おおうちしいせきつけたりりょううんじあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 山口県
市区町村 山口市大殿大路上宇野令中尾
管理団体 山口市(昭40・724)
指定年月日 1959.11.27(昭和34.11.27)
指定基準 史2,史3
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 大内氏中世政治経済史上に、はたまた文化史上に占めた位置極めて高かったことは更めて説くでもないことである。
大内氏山口に居を構えたのは南北朝時代世のといわれる山口東北西の三方に山を連ね、南に口を開く盆地状の小平であってその間椹野川南へ貫流し中世豪族拠地の典型的な地形示している。街区また往時偲ばしめるものがあるが、指定対象は館と城との跡である。
館は、確証を欠く憾はあるが現竜福寺境内といわれ、その南辺を東西に通る道路大殿小路大路)の名は、この名残とされている。竜福寺は、もと白石にあり、義隆(竜福寺殿)の庇護した寺であって毛利隆元館跡移建したもの称されている。方形状の地域であって周辺土塁、堀など、なお、その旧態偲ぶことができる。この北に近く築山の跡がある。築山は教弘(築山殿寛正六年歿の営むところといわれ、当時の記録にも屡々その名が現われるが、別墅如きであった思われる。いま、域内八坂神社元治六年移建築山神社明治二年移建があるが、北西隅に矩の手土塁遺存するのは、居館位置規模を示す遺構として極めて貴重で、江戸時代の末まで苑池のあとがのこっていたといわれる
大内氏は、その盛時、他に見るが如き城郭設けなかったといわれるが、大内氏最後の義長は、毛利氏来襲備えて山口市街の西に聳える標高338メートルいまの峯に築城した。弘治2年春のことであるが、翌3年3月毛利氏来攻の際、一時これに拠ったが、守り難き察して長門遁れ落城した。高嶺城といい、高嶺はまた高峯峯とも書かれ岳山とも称された。急峻な崖をめぐらした独立状の丘陵であって、その頂上部に、稜線上に階段状に郭を連ね配し、その最奥部、最高所本丸設けている。本丸石垣めぐらし、郭の所々にも石垣がある。眼下山口その周辺収め中世山城として典型的なのである大内氏滅亡後山口毛利氏の手中に入り毛利氏もこの城を使用し城番を置き、元和元年至って廃した大内氏完成しないうちに放棄したといわれ、にわかに現存遺構のすべてを大内氏帰することはできないが、地形等より見て大内氏の旧を十分偲ぶことができる。
凌雲寺跡は、山口市街の北西吉敷川上流山間部にある。寺は義興(凌雲寺殿)の開基なるべく、開山は3庵桂悟である。舌状をなして南に延び台地上に営まれたもので、注意すべきはその惣門跡と称せられ遺構である。地域南端部において台地東西に横切るその長い石垣豪壮雄大であって寺院としては異例に属する。寺の位置地形等から見て、盖し有事備えて一種城塞をも兼ねたかと察せられ、大内氏時代特異な遺構として併せ保存すべきものである
通観する大内氏滅亡後、その遺構衰滅赴くのは時の勢であるが、いまここに大内氏動静根本をなすべき遺跡略々たどり得られることは学術上貴重である。
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