多数の前科
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 13:57 UTC 版)
「古谷惣吉連続殺人事件」の記事における「多数の前科」の解説
対馬を離れた惣吉は、博多駅(福岡県福岡市)付近を徘徊し、やがて土地の不良徒輩の仲間に身を投じた。その後、1964年に最後の服役を終え、熊本刑務所を仮出所するまでの34年間のうち、服役期間は29年10か月におよんだため、両親や異性の愛情を得られず、自我意識が強い一方で、他者への思いやりを欠いた性格が形成されていった。 古谷は16歳に達した直後、広島で窃盗事件を起こし、1930年(昭和5年)4月12日、広島区裁判所で懲役1年以上3年以下の刑(不定期刑)に処され、岩国刑務所に服役した。1933年(昭和8年)4月12日に満期。 1. の服役を終えて出所後、1933年(昭和8年)7月29日に厳原区裁判所で、窃盗罪により懲役8月に処された。1934年(昭和9年)3月5日、厳原刑務支所を満期出所。 2. の服役後、1935年(昭和10年)に福岡市で窃盗事件を起こす。同年5月13日、福岡区裁判所で窃盗罪により、懲役2年に処された。1937年(昭和12年)5月13日、福岡刑務所(当時は福岡市百道(現在の同市早良区)に所在)を満期出所。 3. の服役後、1937年に再び福岡市で窃盗・詐欺事件を起こす。同年9月10日、福岡区裁で窃盗罪・詐欺罪により、懲役3年に処され、1940年(昭和15年)8月16日に厳原刑務支所を満期出所。 1941年(昭和16年)4月11日、福岡区裁で窃盗罪により懲役6年に処され、1945年(昭和20年)9月22日に仮釈放されるまで若松刑務所に服役。このため、太平洋戦争(大東亜戦争)中は一貫して服役生活を送っており、敗戦の報(1945年8月15日)も刑務所内で聞いた。この事件は、1940年(昭和15年)11月 - 1941年1月にかけ、福岡市内で刑事を騙って通行人を呼び止め、「身体検査をする」と称して相手の財布から金を抜くもので、福岡警察署(現:中央警察署)の刑事だった鹿子生寛治(1965年当時は県警捜査二課に所属)によって逮捕された。石田郁夫 (1979) は、この犯行について「旅慣れない田舎者を脅しつけ、金品を押収する犯行だった。古谷は世の中に出て以来、官憲と何度も対峙し、社会と刑務所を往復するうちに、かつての自分自身と同じく、都会に気押されている田舎の人間たちを恫喝すれば、窃盗よりもたやすく金品を得られることを知っていた」と述べている。一連の事件を把握していた鹿子生は、同年2月16日、犯人を逮捕するため、旅行者を装って博多駅付近を歩いていたところ、刑事を装って声を掛けてきた古谷から「警察の者だ。所持品を調べる」と言われたため、「金は持たんが手錠は持っとる」と言いながら古谷を取り押さえた。同日は古谷の誕生日で、古谷は鹿子生に対し、「こんな日に捕まったのをきっかけに生まれ変わった気持ちになります」と反省の弁を述べていた。 1947年(昭和22年)1月25日、神戸区裁判所で詐欺罪により懲役3年に処され、1950年(昭和25年)10月7日に仮釈放されるまで、網走刑務所で服役した。
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