外国文化の流入以降のメソポタミア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 05:20 UTC 版)
「メソポタミア神話」の記事における「外国文化の流入以降のメソポタミア」の解説
紀元前539年、メソポタミアはアケメネス朝に征服され、キュロス2世の支配を受ける。これにより3000年に及ぶセム語派メソポタミア人の近東支配は終わりを告げることとなった。ペルシア人は土着の文化、宗教を禁止することはなかった。アッシリアとバビロンは自主独立体として存在し続けたが、カルデアは消滅した。さらにアッシリアに関しては紀元前522年と紀元前482年にペルシャに対する大規模な反乱を起こせるほど力を持っていた。 その後2世紀後の紀元前330年、古代ギリシアマケドニア王国のアレクサンドロス3世がペルシアを打ち破り、メソポタミアを支配した。アレクサンダーが死ぬとセレウコス朝によってヘレニズムの影響がメソポタミアにもたらされた。アッシリアとバビロニアは後にパルティア(バビロニア)、古代ローマ(アッシュリア属州)、サーサーン朝(アシュリスタン(Asuristan))のそれぞれ州となった。バビロニアはパルティアの時代に同化し、アッシリアは残った。 紀元後1世紀になるとキリスト教がじょじょに定着を始める。そして独立州であるアディアバネ王国、オスロエネ(Osroene)、アッシュール、ハトラ、パルミラではキリスト教、ユダヤ教への改宗者が大部分を占めるようになる。グノーシス主義、サービア教、そして現代にも残るマンダ教も人気を集めるようになった。そんな中でもメソポタミア土着の信仰は庶民の間に残り、アッシュール、シン(Sin)といった神々は少なくとも紀元後4世紀まで信仰を集めていた。3世紀になると、キリスト教、ユダヤ教、仏教、ゾロアスター教、そしてメソポタミア土着の要素を統合させたマニ教が生まれた。これは新たなメソポタミア土着の宗教といえる。 アッシュールの都市には14世紀のティムールによるアッシリア東方教会の虐殺が行われるまで人が居住していた。そしてアッシュールへの信仰は少なくとも17世紀までハッラーン周辺に残っていたという証拠が見つかっている。 アッシリアはメソポタミア・キリスト教(Church of the East、古代のネストリウス派)の中心地となった。これは旅僧を通して近東から中央アジア、インド、モンゴル、中国まで広がり、今日にいたるまでアッシリア東方教会、カルデア・カトリック教会(Chaldean Catholic Church)、アンシエント・チャーチ・オブ・ザ・イースト(Ancient Church of the East)として残っている。サービア教、マンダ教など、さまざまなグノーシス主義の宗派も発展した。 7世紀のアラブ・イスラミック・コンクエスト(英語版)の中でアッシリアは崩壊した。この後の数世紀の間にメソポタミアはアラブ人、クルド人、テュルク系民族など非土着の民族、主にイスラム教徒の流入を経験する。土着のエスニシティ、文化、習慣、宗教、言語をもったアッシリア系メソポタミア人は、この後700年の間に徐々にマイノリティへと追いやられていった。そして14世紀、ティムールによりアッシリア人の虐殺を経てアッシュールが放棄されるとアッシリア人のコミュニティは表舞台から姿を消した。 しかし現在なおも新アラム語(英語版)は、さまざまな虐殺を生き抜きアラブ化に抵抗した人々、全メソポタミアの5パーセントを占める人々の間で話されている。彼らはモダン・アッシリア人と呼ばれるキリスト教徒であるが、独自の言語、新アラム語(紀元前1200年のメソポタミアで話されていた言語に起源を持ち、アッカド語からの数百に及ぶ借用語と文法構造を受け継いでいる言語)を持ち、エスニック・アイデンティティを持ち、子供には例えばアッシュール、シャマシュ、セミラミス、ラマス(Lamassu)、センナケリブ、ハダド(Hadad)といった古代からの名前を使う習慣を残している。そして同様に古代の神々の名前にちなんだ月を持つアッシリア暦を用いる。現代のアッシリア暦は都市、アッシュールが同名の神に捧げられた紀元前4750年に起源を持つ。
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