報告書の発表
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「プログラム・フォー・アクション」の記事における「報告書の発表」の解説
1968年2月29日に、ニューヨーク州知事ネルソン・ロックフェラーに対してMCTAは56ページに及ぶ報告書を提出し、その中で「メトロポリタン・トランスポーテーション、ア・プログラム・フォー・アクション」(あるいはグランド・デザイン)という名の地下鉄・鉄道網改良計画を提案した。この提案に関わった幹部としては、ニューヨークの野球業界にかかわっていたウィリアム・シー(英語版)がいた。プログラム・フォー・アクションは、ニューヨークのジョン・リンゼイ市長が企画するその他の開発や交通関係の計画とともに同時に進められることになっていた。こうした開発としては、住宅・教育設備に関するリンゼイのリニアシティ計画や、ロバート・モーゼス提案の何本かの州間高速道路の計画などがあった。計画発表の翌日の3月1日に、MCTAはメトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティ (MTA) となった。 プログラム・フォー・アクションの理由付けとしてMCTAは、「1985年までには、この都市圏には2500万人が住むことになる。最良の推計に基づけば、主に郊外において人口が増加するものと見込まれる。ニューヨーク市は、1985年まではそれほど成長しないものと見込まれている。停滞する人口はしかしながら、市の郊外地域に再配置されるものと思われ、スタテンアイランド、クイーンズ、ブルックリンとブロンクスの一部で人口が増加する一方で、都心に近い古くからの地域は比較的人口が安定するであろう」と述べていた。この20年間にニューヨーク市では雇用が250万人分増加し、マンハッタンの中心業務地区では既に8.6平方マイル(約22平方キロメートル)の地域で780万人の雇用を抱えていた。 プログラム・フォー・アクションは2段階に分かれており、総額で29億ドル(2017年現在の価値に換算して204億800万ドルに相当)かかるとされていた。MTAはこのプログラムに向けて、1967年に発行した債券収入が財源の大半となっている10億ドル以上の資金を与えられていた:233。またやはり多くの資金を、毎年2500万ドル以上の利益を計上しているトライボロー橋梁トンネル局(英語版)が出すことになっていた:234。プログラム・フォー・アクションの一環として、既に時代遅れとなっていて荒廃しているものとされた既存の高架構造物は、近隣地区の開発促進を兼ねて新しく建設される地下鉄に置き換えられることになっていた。クイーンズのジャマイカ地区の業務地区にあるBMTジャマイカ線東端部はBMTアーチャー・アベニュー線に置き換えられることになっており、一方ブロンクスに残るIRT3番街線は、メトロノース鉄道ハーレム線に沿ってパーク・アベニューの下に新しく建設される地下鉄に置き換えられて取り壊されることになっていた。市の当初計画にしたがい、新しい地下鉄路線はこれまであまり公共交通の恩恵を受けていなかった地域に交通機関を提供し、一方でメトロノース鉄道やロングアイランド鉄道の改良も行われることになっていた。IND6番街線に1967年から1968年にかけて、プログラム・フォー・アクションの前段階プロジェクトといえるクリスティー・ストリート連絡線の一環として完成したグランド・ストリート駅と57丁目駅は、新しいプログラムで建設される路線網に組み入れられることになっていた。プログラムが完成した際に計画されている運行系統を示す地下鉄網の地図も描かれた。この新たな延長計画は合計して50マイル(約80キロメートル)におよぶ営業キロに達していた:244。 MTA議長のローナンは、「我々は30年間に及ぶ無為無策主義の遅れを取り戻す」として、MTAをプログラム・フォー・アクションの実現へ向けて動かした。1968年7月に地域計画協会(英語版)は、延長計画を支持する別の報告書を発表した。2か月後の1968年9月20日、ニューヨーク市予算委員会とジョン・リンゼイ市長は、交通委員会が推薦した8本のルートのうち6本について、総費用13億ドルで承認を行った。
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