報告書への各国の反応
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「リットン調査団」の記事における「報告書への各国の反応」の解説
この報告により、イギリスやフランス、イタリアをはじめとする連盟各国は「和解の基礎が築かれた」と大きな期待をもった。リットンを長とする委員会は、1932年3 - 6月にわたり日本、満州国および中華民国を調査し、9月に報告書を提出した。この間の3月1日に満州国が独立を宣言、中華民国政府は承認しなかったが報告書提出前の9月15日に日本は同国の独立を承認した。 リットン報告書は「柳条湖事件における日本軍の活動は自衛とは認められず、また、満州国の独立も自発的とはいえない」とした。しかし、「事変前の状態に戻ることは現実的でない」として日本の満州国における特殊権益を認め、日支間の新条約の締結を勧告したが、この報告書をめぐり日支は対立した。内容的には日本にとって「名を捨て実を取る」ことを公的に許す報告書であったにもかかわらず、報告書の公表前に満洲国を承認し、「満洲国が国際的な承認を得る」という1点だけは譲れない日本はこれに反発した。この報告書への日本側の反論を書いたのが、日本外務省の法律顧問でイギリス人のトマス・バティであった。 1933年2月24日の国際連盟総会では「支日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」の採択が付議された。この報告書はリットン調査団報告書を基礎に作成されたものであるが、その結論をすべて採用したわけではなく、満州の主権については明確に踏み込んだ表現を使用し、法的帰属については争う余地がなく支那にあり、日本が軍事行動をとったことを自衛とは言えないとしたうえで、法律論及び事実の両面から満州国の分離独立を承認すべきではなく、日本軍が満州鉄道の鉄道地区まで撤退すべきであるとした。また日本の特殊権益を確認したうえで九カ国条約の原則を維持することを勧告した。 この総会報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項および6項についての条件が成立した。松岡洋右全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場し、日本政府は3月8日に脱退を決定(同27日連盟に通告)し、日本国内世論は拍手喝采をもって迎えた。42対1は当時日本で流行語になり語呂合わせで「向こうは死に体でこっちは1番なんだ」等と一部で評された。 なお、シャム(タイ)の棄権は各国代表を驚かせたが、当時の駐シャム公使矢田部保吉が、同国外相に対する再三再四の働きかけによって、「暹羅国ハ東洋ノ一国ナレハ日支両国何レニモ味方シ得ス、又敵トモ為シ得ス仍テ同国代表ハ満州事変二関スル国際連盟ノ表決ニハ棄権スヘシ」(シャムロ国は東洋の一国なので日本・支那どちらの味方でも敵でもない。よって同国代表は連盟での票決には棄権する)との言質を引き出していたという経緯があった。当時の同国では、1932年の立憲革命によって、対日関係を重視した政権が成立していた上、同国自身、膨張する華僑勢力との民族摩擦という国内問題を抱えており、支那の立場に同情できなかったという事情が指摘されている。
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