地元蔵としての歩み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 14:47 UTC 版)
創業は江戸時代末期から明治時代初期とされる、行待酒造場を前身とする。行待酒造場は1944年(昭和19年)に企業整備令で休業を余儀なくされたが、終戦後、3代目蔵元が、同じく休業していた他の酒蔵に呼びかけ、1947年(昭和22年)に4社共同で竹野酒造として再建した。明治時代に行われた京都府初の農地改革で整備された田園に隣接し、地下には伏流水が絶えず流れる土地に建つ。仕込み蔵には昔ながらのかまどが残る。1950年(昭和25年)、その地名の弥栄と縁起物の鶴から、「弥栄鶴(やさかづる)」を扁額に掲げる。 21世紀初頭における、主要銘柄「亀の尾蔵舞」は、1983年(明治26年)に山形県の阿部亀治によって生まれた米「亀の尾」を100パーセント使用する。亀ノ尾は、冷害の年に3本だけ稔った在来品種「惣兵衛早生」の稲穂から育成され、食味がよく、その血はコシヒカリやササニシキにも受け継がれた。当初は飯米として東日本で広く栽培されたが、亀ノ尾で仕込んだ吟醸酒は米の旨みを感じる個性的な酒であるとして、酒米としても評価が高い。明治期の酒造りでは、西の「雄町」に東の「亀ノ尾」と呼ばれ、全国を二分する双璧の一翼を担った。農業の近代化に適合せず、昭和初期に一度絶滅したが、1980年(昭和55年)に新潟県の久須美酒造が、1981年(昭和56年)に山形県の鮎川酒造が復活栽培に挑みはじめ、『夏子の酒』で全国に知られるようになる。しかし、化学肥料との相性が悪く、稲穂の背丈が高いために倒れやすいという欠点があるため、生産農家は少ない。 弥栄町では、2000年(平成12年)、地元の郷土研究者・芦田行雄から竹野酒造に対し、「亀ノ尾」であるとする3キログラムの米が提供され、その復活を試みたことが発祥となる。竹野酒造に1996年(平成8年)頃から酒米を提供していた農家が栽培に協力し、2001年(平成13年)に1反の田で栽培が試行されたが、秋に実ったのは赤や黒の稲穂だった。これら混在していた古代米を1本ずつ抜き穂、選別し、約300キログラム余の「亀ノ尾」を収穫。翌2002年(平成14年)からは、別の地元農家が4反を栽培し、「亀ノ尾」を主とする酒の販売を開始した。
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