地元民との関わり・出版物の影響
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「甲州道中図屏風」の記事における「地元民との関わり・出版物の影響」の解説
また、旅において地元民との交流があったとも見られている。17「岩殿城跡」では付箋に「井戸」「池 馬場」「大手跡」など岩殿城の各遺構の所在が記されている。江戸期の道中案内記では城跡の遺構まで詳細に記されてはおらず、街道沿いから城跡を眺めるだけでなく実際に現地に立ち寄り、地元民に案内され遺構の所在を確認していたと見られている。 また、屏風では地元民の耳から聞き取った音声情報が反映されていると見られる箇所や誤記も見られ、9「金亀岩」は『新編相模国風土記稿』では「キンキ岩」と読みが記されているが、屏風絵の付箋では「きゞ岩」と記されている。同様に25「石和宿辺」では、笛吹市石和町市部に所在する日蓮宗寺院・遠妙寺(おんみょうじ)の付箋には「本妙寺(ほんみょうじ)」と記され、甲府の「大泉寺(だいせんじ)」には「大善寺(だいぜんじ)」、駿河の「実相寺(じっそうじ)」には「真相寺(しんそうじ)」記されている。 屏風絵ではこうした地元民との交流から得られた情報を取り入れていたと見られるのに対し、当時数多く出版されていた道中案内記・絵図類を参照し事前に旅の情報を得ていたとも見られ、屏風絵に描かれた各絵の場所は文政2年(1819年)出版の十返舎一九『身延山道中ノ記 金草鞋』や甲斐国絵図、『五海道中細見独案内』などの道中案内記・絵地図と共通するものが多い。 また、鰍沢から身延山に至る経路は当時、快速性に優れていた富士川舟運が発達していたが、旅の作者はこれを利用せずに陸路を経ている。『身延山道中ノ記 金草鞋』では急流で難所の多かった富士川水運の危険性を記しており、旅の作者は事前にこうした情報を得て陸路を選択していた可能性が考えられている。
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