在朝日本人・在日朝鮮人の帰国
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「日朝関係史」の記事における「在朝日本人・在日朝鮮人の帰国」の解説
満洲国(現在の中国東北部)、関東州(現在の中華人民共和国・遼寧省大連市一部地域)、占領地域の民間人の保護や引き揚げは大東亜省の管轄であった。大東亜省は在留日本人については現地定着の方針をとり、朝鮮人や台湾人は追って指示があるまで従来通りとした。朝鮮、台湾、樺太を管轄する内務省もこの方針にならい、結果的に日本政府は各地の民間人の生命財産の保護を放棄した。 降伏後の日本軍部や大企業では、強制徴用をした在日韓国・朝鮮人の帰国を急いだ。戦犯としての処罰を回避するためと、暴動の発生を回避したいという理由があった。連合軍兵士の捕虜たちを労働に従事させていた地域では、戦時中から米軍機が捕虜虐待を警告するビラを投下しており、事情を知る企業は終戦直後に捕虜や強制徴用者の資料破棄と強制徴用者の送還を行った。 戦後の混乱で政府の方針が決定される前に送還が急がれる中で、犠牲も発生した。終戦直後の1945年8月24日には、大湊警備府の軍用壕建設のために強制徴用されていた者を含めて3700人以上の朝鮮人を送還する輸送艦が爆沈して、乗組員を含め549人が死亡する浮島丸事件も起きた。 中小の炭鉱や工場では強制徴用者は放置され、漁港から自力で帰国を試みて難破する事故も起きた。政府はこうした事態を受けて、1945年9月1日に「朝鮮人集団移入労務者の緊急措置の件」という通達を出した。その後も、朝鮮半島から引き揚げる日本人が乗用した貨客船が爆沈して545人が死亡する珠丸事故が起きた。 朝鮮半島内には在朝日本人が80万人近くおり、加えて満洲からも12万人が逃亡してきて、引き揚げは難航した。もと朝鮮軍の軍人や警察官の関係者は輸送手段を使えたものの、多くの日本移民は自力での帰国が必要だった。半島南部ではアメリカの主導により1946年に本国輸送が終了したが、半島北部では計画的な輸送がなく、1946年には3万人以上が死亡した。在日朝鮮人は終戦時に200万人おり、1946年内に150万人が帰国した。 樺太や南洋群島にも、朝鮮人が徴用などで生活していた。南洋群島には朝鮮人が7千人、サハリンとなった南樺太には2万3千人の朝鮮人がいた。南洋群島の朝鮮人は本国へ直接引き揚げとなった。南樺太の朝鮮人の多くは南朝鮮の出身だったが、ソ連は北朝鮮への帰国のみを認めたため、1990年の韓ソ国交樹立まで帰国を待つことになる。
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