国産化の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 03:42 UTC 版)
その後、輸入機関車は各形式の両数が少数ずつとなり保守の面で問題があること、国産技術の確立を目指す動きから、機関車の国産化が本格的に進展することになる。 電気機関車の国産化自体は日立製作所が1926年にED15形を独自に開発しており、運用上もまずまずの成績を挙げていた。そのため、各メーカーの製造能力に問題はないと判断した国鉄は、1928年に輸入機の中で好成績を収めたアメリカ・ウェスティングハウス・エレクトリック社製のED53形のシステムを参考に、EF52形を製造させる。これは必ずしも性能・信頼性の観点からして完全に成功したとはいえなかったが、ここで確立された技術は引き続いて製造されたED16形やEF53形などにも引き継がれ、国産化を推進する原動力にもなった。 その後、流線型を採用したEF55形なども製造されたが、電化そのものが国鉄では陸軍の反対(変電所が攻撃を受けると、運行不能になるといったことなど)もあって進展していないこともあって、電気機関車が蒸気機関車の代替を本格的に担うようになったのは、戦後に各線の電化が進められたときまで待つ必要があった。 なお1927年には東京、王子の須賀貨物線で用いるため、蓄電池を搭載した機関車のAB10形が2両製造されている。これは、沿線に火薬工場があるため、火気を持つ蒸気機関車や、架線から出る放電(スパーク)現象が危険だと判断されたためと言われている。しかし、1931年に須賀貨物線は電化され、電気機関車のEB10形へ改造された。 日中戦争が勃発した1937年に、画期的な機関車のEF56形が現れる。蒸気機関車の牽引する客車列車では、冬季はボイラーから出る蒸気を客車へパイプで送ることで暖房にしていたが、電気機関車ではそれができないため、従来は東海道本線などの電気暖房を採用していた一部線区を除き、冬季は電気機関車と客車の間に暖房車と呼ばれる暖房用蒸気を作るボイラーを積んだ車両を連結していた。EF56形は機関車本体に暖房用の蒸気発生装置(SG)を備えており、暖房車の連結を不要にしたのである。1940年には、同機の性能を向上させたEF57形も現れた。 また第二次大戦中の1944年には当時日本統治下にあった朝鮮の京城と元山を結ぶ朝鮮総督府鉄道京元線の山岳区間において朝鮮初の本線電化が行われる。標準軌で建設され、かつ3000Vで直流電化されたこの区間には、当時の日本では最大の出力 2250kWを有するデロイ形電気機関車が投入された。この機関車は重連総括制御方式や回生ブレーキを採用するなど、先端設備を備えた電気機関車であった。 なお太平洋戦争末期には、戦時設計と呼ばれる終戦までの一時凌ぎ的な耐久性しかもたず、製造コスト・使用資材低減のみを重視した車両も設計され、それに基づいて電気機関車では凸型車体のEF13形が製造された。これはやはり故障や事故が多く、戦後になって安全対策工事などが施されている。また、戦時買収私鉄から国鉄に受け継がれた機関車も多く存在した。
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