国産化の試みとは? わかりやすく解説

国産化の試み

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:52 UTC 版)

砂糖」の記事における「国産化の試み」の解説

江戸時代初期薩摩藩支配下琉球王国では、1623年儀間真常部下を明の福州派遣してサトウキビ栽培黒糖生産法を学ばせた。帰国した部下から得た知識元に砂糖生産奨励し、やがて琉球特産品となった江戸時代には海外からの主要な輸入品のひとつに砂糖あげられるようになり、オランダ中国貿易船バラスト代わり底荷として大量砂糖出島持ち込んだこのころ日本からは大量金・銀産出されており、その経済力バック砂糖高値輸入され大量砂糖供給は、砂糖使った和菓子発達もたらした。 しかし17世紀後半には金銀枯渇し金銀流出原因のひとつとなっていた砂糖輸入を減らすために、江戸幕府将軍徳川吉宗琉球からサトウキビとりよせ江戸城内で栽培させ、サトウキビ栽培奨励して砂糖国産化もくろんだまた、殖産興業目指す各藩価格の高い砂糖着目し、自領内栽培奨励した。 特に高松藩松平頼恭サトウキビ栽培奨励し天保期に国産白砂糖流通量の6割を占めるまでになったまた、高松藩このころ和三盆開発成功し、高級砂糖として現在でも製造されている。こうした動きによって19世紀にはいると砂糖のかなりは日本国内まかなえるようになった天保元年から3年1830年から1832年)には、大坂での取引量は輸入糖430斤と国産糖2320斤、あわせて2750斤(1万6500トン)となり、さらに幕末慶応元年1865年)にはその2となっていた。 一方このころ大坂儒者である中井履軒は、著書老婆心』の中で砂糖の害を述べ砂糖亡国論唱えた。また江戸幕府文政元年1818年)に、サトウキビ作付け制限布告したが、実効上がらず砂糖生産増え続けた江戸時代砂糖流通砂糖問屋が行っていたが、幕府崩壊とともに独占体制崩れ明治時代には自由な流通が行われることとなった

※この「国産化の試み」の解説は、「砂糖」の解説の一部です。
「国産化の試み」を含む「砂糖」の記事については、「砂糖」の概要を参照ください。

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