嘉数の対戦車戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 05:18 UTC 版)
嘉数の対戦車戦闘は、アメリカ軍が嘉数からわずか200メートルほどの丘に陣取ったことから始まった。これは強襲部隊であった第105連隊の先導部隊であった。ここを拠点として嘉数陣地へ攻撃をかけようとした矢先、周辺にある日本軍陣地から機関銃、野戦砲などが火を吹き、たちどころに進撃はストップしてしまった。連隊は状況を打開する手を打てず釘付けにされ(反撃することすらままならなかったといわれている)、撤退を開始しようとしたが、そこにアメリカ軍の戦車隊が支援のために到着する(8時30分頃)。戦車は嘉数陣地と西原陣地の間を通り抜け、嘉数を落すべく進撃を開始した。この進撃の際、日本軍の対戦車地雷により3~4両が擱座し、さらに西原陣地の周辺では隠されていた日本軍の速射砲(対戦車砲)の狙い撃ちにより、4両が破壊された(このとき放たれた対戦車砲弾は記録によると16発と言われている。アメリカ軍側は何の反撃も出来なかったとされる。)戦車はペリスコープなどの外部視察装置を備えてはいるが、歩兵と比べて視界が限られている。戦車長が危険を冒して戦車上部のハッチを開けて頭部を出し指揮を執る事例は少なくないが、日本兵はこうした戦車長を集中的に狙撃したため、戦車からの視界がさらに狭くなってしまった。そのために日本軍の速射砲(対戦車砲)でもM4シャーマン戦車を側面や背面から射撃することによって撃破出来たのである。 しかし、破壊を免れた戦車は、10時ごろには嘉数の陣地(村落付近)へ侵入することに成功した。アメリカ軍は日本軍陣地に砲撃を加え多くの陣地を破壊したといわれる。ここで両軍は凄惨な戦闘を経験することとなる。 日本軍は極めて組織的な戦闘を展開し、アメリカ軍戦車に襲いかかった。日本軍村落陣地の中心付近へ進入した戦車隊は前後から攻撃にさらされた。狙撃兵や歩兵がシャーマン戦車のハッチに集中的に狙撃を行ったため、偵察中の戦車長の多数が死傷した。シャーマン戦車はもともと視界が悪いため、この被害によって行動不能となって進撃出来なくなってしまった。さらに、日本軍の特攻兵は陣中で急造した爆雷を抱えて突っ込み、戦車の走行装置を破壊。これがアメリカ軍にとって大打撃となった。動けなくなった戦車に日本兵が群がり、天蓋や操縦席のバイザーブロック(のぞき窓)から手榴弾を投げ込んだり拳銃を乱射したりしたほか、速射砲(対戦車砲)による至近射撃(零距離射撃)も行い、戦車に対し壮絶な近接戦を展開したという。アメリカ軍側もただ手をこまねいて見ていたわけではないが、視界が奪われた上に動きを遮られたため反撃らしい反撃は出来なかったようである。アメリカ軍側の資料には、このとき攻撃を受けた戦車が後方の27師団に対し「ヘルプ!ヘルプ!」の電信を平文で打ち続けたという記録が残っている。 アメリカ軍の歩兵は嘉数陣地によって有効な行動がとれないようになっていたため、歩兵による支援が無かった戦車隊は、13時30分ごろに後退命令によって退却を開始。3時間近くに及ぶ戦闘により戦車14両が破壊され、退却できた戦車は当初の30両のうちわずか8両であった。また、勝ったとはいえ日本軍の損害も大きかった。 なお、西原・嘉数までのアメリカ軍戦車部隊の進撃路の途中には、山なりの横道が多かった。日本軍はそこに多くの対戦車兵器を隠しており、もし戦車部隊が横道に進撃していたならば、この日の戦闘は日本軍側が完敗していただろうとする意見がある。 日本軍が有する対戦車砲の大部分は連合軍が装備する対戦車砲よりも小口径で性能が劣っていた為、通常の戦闘距離でアメリカ軍のM4シャーマン戦車を正面から撃破することは出来なかったが、至近距離ならばなんとか撃破でき、また側面や背面からなら撃破の可能性がさらに上がった。嘉数の対戦車戦闘は地形の利などを生かすパックフロント(英語版)(対戦車砲列陣地)を形成した対戦車砲が活躍した、数少ない戦闘といえる。他に硫黄島の戦いにおいても速射砲(対戦車砲)が活躍している。
※この「嘉数の対戦車戦」の解説は、「嘉数の戦い」の解説の一部です。
「嘉数の対戦車戦」を含む「嘉数の戦い」の記事については、「嘉数の戦い」の概要を参照ください。
- 嘉数の対戦車戦のページへのリンク