呂氏による政権掌握
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始皇帝による秦の天下統一と、その死後巻き起こった陳勝・呉広の乱(竿旗起義)と呼ばれる農民反乱と旧六国での有力者・武将らによる復興宣言、六国の一つ楚を復興してその将となった項羽・劉邦らによる秦の滅亡、その後の内戦(楚漢戦争)を経て、最終的に項羽を滅ぼした劉邦は各地の王らによる推戴を受けて皇帝を称し、国号を漢と定めて新たな王朝を樹立した。即位した劉邦は正妻であった呂雉を皇后に、呂雉との間の男児であった劉盈を皇太子に立てたが、その一方で側室の戚夫人とその息子の劉如意を溺愛し、たびたび劉盈を廃して劉如意を皇太子に擁立しようとした。しかし呂雉は楚漢戦争時代からの劉邦の部下であった張良の力を借りる事で、劉盈の廃立をなんとか阻む事に成功した。 高祖12年旧暦4月25日(紀元前195年新暦6月1日。以下、カッコ内は新暦)、劉邦は長楽宮にて死去し、皇太子の劉盈が新たに皇帝として即位し(諡号は恵帝、以下便宜上そのように表記)、母である呂雉は皇太后とされた。また呂雉の意向により、恵帝は自身の姪(姉妹の魯元公主と張耳の後嗣の趙王張敖の娘)の張氏を皇后に立てた。しかし呂雉は恵帝の即位後、過去の後継者争いを巡る対立の報復として、幼い劉如意(当時は趙王)を暗殺、さらに戚夫人を残虐な方法で殺害した事で、精神的なショックを受けた恵帝は淫楽に耽り、やがて病が重くなり起床することもできなくなった。 8月11日(9月26日)、恵帝は死亡した。葬儀の際に呂雉は慟哭したものの、涙は流さなかったとされる。張良の子であった張辟彊(当時15歳)は左丞相の陳平に対し、呂雉が陳平らの存在を恐れている事を伝え、呂禄・呂産ら呂氏一族の者達を招き入れるよう進言する事で、呂雉の警戒を解き身の安全を保つ事ができると進言した。陳平がこれを聞いて奏上したところ、呂雉は、大変喜んでこの建議を受け入れた。 呂雉は恵帝の死後称制を開始し、呂氏一族を王に封じようと考えたところ、右丞相王陵は、高祖の白馬の盟に違背すると主張してこれに反対し、左丞相の陳平は、呂雉に同意した。呂雉は、王陵を太傅(名誉職)に昇進させ、その権力を剥奪した。王陵は、病と称して参内しなくなった。呂雉は、左丞相陳平を右丞相に昇進させ、辟陽侯審食其を左丞相に任命した。呂雉は恵帝の命と称して、三族令の廃止を宣言した。 三代目の皇帝には恵帝の子(名不詳、前少帝と呼称される)が即位したが、この人物は恵帝と女官の間に生まれた子であり、その事実を隠して皇后の張氏との間の子であると偽るため、実の母であった女官は殺害されていた。前少帝は成長すると実の母の敵を討とうと望むようになり、呂雉は前少帝を恐れた。高后4年5月11日(紀元前184年6月15日)、呂雉は前少帝を廃し、幽閉した後に殺害した。次の皇帝には恒山王劉義が擁立され、劉義は諱を改めて劉弘と称した。 呂雉は称制に臨んで長兄の呂沢(中国語版)の子の呂台(中国語版)を呂王(斉国の博陽郡の一部を独立させて呂国とし、その王)に封じ、死後はその子の呂嘉(中国語版)が爵位を継いだが、呂雉は呂嘉の住まいが豪奢であることを理由に高后6年(紀元前182年)にこれを廃位し、呂台の弟で呂嘉の叔父であった呂産を呂王に封じた。高后7年(紀元前181年)2月、呂産は、梁国に国替えとなり、梁国は呂国と、それまでの呂国は済川国と改称された。また呂雉の次兄の呂釈之(中国語版)の子の呂禄も、彼が北軍を統率していた際に、軍規が厳正であり、威信を備えていたことを理由に、高后7年に趙王に封じられた。 呂雉は、恵帝の在位時に、高祖の庶子である趙王劉如意を殺害し、高祖の庶子である淮陽王劉友(中国語版)を趙王に改封し、劉友に呂氏一族の娘を嫁がせた。劉友には愛妾がいたため、寵愛を失った劉友の王后の呂氏によって、謀反の疑いで誣告され、劉友は、京城に召されて餓死した。呂雉は、また、高祖の庶子である梁王劉恢を趙王に改封し、呂産の娘を嫁がせた。劉恢の后(呂氏)は、趙国を掌握し、劉恢を監視し、人を派遣して劉恢の愛妾を毒殺したため、劉恢は、傷心し、恐れて自殺した。呂雉は、劉恢が愛妾のために殉死したと考え、劉恢の封国を廃除した。高祖の別の庶子である燕王劉建(中国語版)の死亡後、呂雉は、人を派遣して劉建の庶子を殺害した。燕国は、後嗣がなかったため、国を除かれた。
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