呂氏討伐の動き
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高后8年(紀元前180年)、呂雉は病死した。その遺書により各地の諸王には千金が支給され、大赦が下され、呂産は相国に昇進し、呂禄の娘は少帝に嫁いだ。呂氏一族は反乱を企てていたが、周勃・灌嬰らの存在を恐れて計画を躊躇していた。また当時長安にいた朱虚侯劉章は、呂産の娘であった自身の妻を通して、この陰謀を察知する事ができた。粛清を恐れた劉章は兄の斉王劉襄に対し挙兵を要請し、劉襄は琅邪王劉沢を欺いて兵権を奪い、呂后による前少帝の暗殺、三趙王(劉如意・劉友・劉恢)の殺害、呂氏一族への封爵などを糾弾する檄を飛ばして兵を挙げた。これを知った呂産は灌嬰に兵を与えて迎撃を命じたが、灌嬰は滎陽まで進軍するとそのまま留まり、劉襄に対し「呂氏が変事を起こすのを待って、それから共に彼らを討とう」と説得した。これを聞いた劉襄は、斉国の西の国境まで兵を引いた。 呂禄・呂産らは関中での反乱を計画したが、内にいる劉章・周勃らや外からの斉・楚の兵を恐れ、また灌嬰が斉の兵と衝突するのを待とうとするなど、優柔不断となっていた。一方、陳平と周勃は曲周侯酈商の身柄を拉致し、その息子の酈寄(中国語版)に指示して、呂禄・呂産らに対して「天下は未だ安定しておらず、大臣や宗室の諸王らは貴方がたの野心を疑っている。軍の指揮権を返還して各々の領地へと帰れば、彼らの疑念を解く事ができる」と吹き込ませた。呂禄はこれを信じて呂氏一族の元にこれを伝えたが意見は定まらず、呂禄は呂雉の妹であった臨光侯呂嬃(中国語版)の下を訪ねたが、呂嬃は激怒して「軍の指揮権を失えば、我が一族の居場所はなくなるであろう。こんなもの、人に奪われるぐらいならば!」と宝物を外に叩きつけたという。 高后8年9月26日の朝、平陽侯曹窋(前相国の曹参の子)は呂産と会議を行っていたが、ちょうど呂産の親族である郎中令賈寿の使者が、灌嬰が謀反を起こした旨の知らせを伝え、呂産は急いで未央宮(前漢を通しての皇帝の宮殿)へと向かった。場に居合わせた曹窋は丞相の陳平と大尉の周勃に対しこの事を報告し、周勃は北軍の指揮権を抑えようとした。周勃は割符を持っていなかったため、襄平侯紀通(楚漢戦争で劉邦の身代わりとして戦死した紀信の子)の手引きによって軍営へと入る事ができた。周勃は北軍の兵士たちに対し、「呂氏に味方するものは右肩の衣を脱げ。劉氏に味方するものは左肩の衣を脱げ」と命じると、兵士たちは皆左肩の衣を脱ぎ、劉氏への忠誠の意思を示した。 同じ頃、南軍の指揮権を持っていた呂産は未央宮に入って乱を起こそうとしたものの、曹窋より「呂産を通してはならない」との指示を受けていた衛兵らに入宮を拒まれ、宮殿の前を右往左往していた。さらには万全を期した周勃の指示により、少帝を保護すべく向かっていた劉章率いる一団が未央宮へと入り、呂産は厠の中まで逃げ込んだところを殺害された。 劉章はさらに長楽宮を衛尉として守っていた呂氏一族の呂更始を殺害し、周勃と合流した。周勃は「呂産さえ仕留めた以上、大勢は決した」と語り、呂氏一族の者達を全て捕え、長幼の区別なく皆殺しにした。呂禄、呂嬃、燕王呂通らは斬られ、呂雉の孫として血を引いていた魯王張偃は王号を廃された。
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