呂氏討伐の動きとは? わかりやすく解説

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呂氏討伐の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 14:40 UTC 版)

呂氏の乱」の記事における「呂氏討伐の動き」の解説

高后8年紀元前180年)、呂雉病死した。その遺書により各地諸王には千金支給され大赦下され呂産相国昇進し呂禄の娘は少帝嫁いだ呂氏一族反乱企てていたが、周勃灌嬰らの存在恐れて計画躊躇していた。また当時長安にいた朱虚劉章は、呂産の娘であった自身の妻を通して、この陰謀察知する事ができた。粛清恐れた劉章は兄の斉王劉襄対し挙兵要請し劉襄琅邪王劉沢欺いて兵権奪い呂后による前少帝暗殺、三趙王劉如意劉友劉恢)の殺害呂氏一族への封爵などを糾弾する飛ばして兵を挙げた。これを知った呂産灌嬰に兵を与えて迎撃命じたが、灌嬰滎陽まで進軍するそのまま留まり劉襄対し呂氏変事起こすのを待って、それから共に彼らを討とう」と説得した。これを聞いた劉襄は、斉国西の国境まで兵を引いた呂禄呂産らは関中での反乱計画したが、内にいる劉章周勃らや外からの斉・の兵を恐れ、また灌嬰が斉の兵と衝突するのを待とうとするなど、優柔不断となっていた。一方陳平周勃曲周酈商身柄拉致し、その息子の酈寄(中国語版)に指示して呂禄呂産に対して天下未だ安定しておらず、大臣宗室諸王らは貴方がた野心疑っている。軍の指揮権返還し各々領地へと帰れば、彼らの疑念を解く事ができる」と吹き込ませた。呂禄はこれを信じて呂氏一族元にこれを伝えた意見定まらず呂禄呂雉の妹であった臨光侯呂嬃(中国語版)の下を訪ねたが、呂嬃は激怒して「軍の指揮権失えば我が一族居場所はなくなるであろう。こんなもの、人に奪われるぐらいならば!」と宝物を外に叩きつけたという。 高后8年9月26日の朝、平陽侯曹窋(前相国の曹参の子)は呂産会議行っていたが、ちょうど呂産親族である郎中令賈寿の使者が、灌嬰謀反起こした旨の知らせ伝え呂産急いで未央宮前漢通して皇帝宮殿)へと向かった。場に居合わせた曹窋は丞相陳平大尉周勃対しこの事を報告し周勃北軍の指揮抑えようとした。周勃割符持っていなかったため、襄平侯紀通(楚漢戦争劉邦身代わりとして戦死した紀信の子の手引きによって軍営へと入る事ができた。周勃北軍兵士たち対し、「呂氏味方するものは右肩の衣を脱げ劉氏味方するものは左肩の衣を脱げ」と命じると、兵士たちは皆左肩の衣を脱ぎ劉氏への忠誠意思示した。 同じ頃、南軍指揮権持っていた呂産未央宮入って乱を起こそうしたものの、曹窋より「呂産通してならない」との指示受けていた衛兵らに入宮拒まれ宮殿の前を右往左往していた。さらには万全期した周勃指示により、少帝保護すべく向かっていた劉章率い一団未央宮へと入り呂産は厠の中まで逃げ込んだところを殺害された。 劉章はさらに長楽宮衛尉として守っていた呂氏一族の呂更始殺害し周勃合流した周勃は「呂産さえ仕留めた以上、大勢決した」と語り呂氏一族の者達を全て捕え、長幼区別なく皆殺しにした。呂禄、呂嬃、燕王呂通らは斬られ、呂雉の孫として血を引いていた魯王張偃は王号廃された。

※この「呂氏討伐の動き」の解説は、「呂氏の乱」の解説の一部です。
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