各国への翻訳・波及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 05:19 UTC 版)
「アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)」の記事における「各国への翻訳・波及」の解説
『アースキン・メイ』は1850年代にはすでにイギリス国外でも評価されており、スウェーデンとオスマン帝国の議会がアースキン・メイに接触したほか、『タイムズ』紙は『議会の法、特権、手続と慣習』が本国よりもオーストラリアで有名であると報じた。 メイの死から8年後の1894年時点で、日本語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、ハンガリー語、フランス語訳が出版された。日本では1879年(明治12年)に小池靖一による日本語訳『英國議院典例』が律書房より出版されている(翻訳元は1873年に出版された第7版)。明治期の日本ではメイの名前を「多摩斯阿爾斯京理」(トマス・オルスキン・メイ)と表記していた。 陸奥宗光との対談(1884年) メイの死後に日本の外務大臣を務め、「陸奥外交」の一環でイギリスとも所縁のある陸奥宗光は、ヨーロッパ留学中(1884年 - 1885年)にメイ本人に教えを請うた記録が残っている。その議題は以下のとおり、小選挙区制、議会の二院制、政党政治、責任内閣制など多岐に渡った。 このとき、イギリスでは第3次選挙法改正(英語版)の最中であり、選挙法改正を行う第2次グラッドストン内閣をメイは実務面から支えていた。そうした中、陸奥は日本が採用すべき選挙制度をメイに尋ね、メイは「小選挙区制は間違いなく最も単純」を理由として小選挙区制を勧め、陸奥が小選挙区制において多くの死票が発生するという問題を指摘すると、メイは多数の得票を得た政党が敗北するという状況が「起こる可能性はあまりないと思う」、「選挙において完全なる公正と平等は不可能である」と小選挙区制への支持を維持した。1885年に陸奥がドイツの社会学者、法学者ローレンツ・フォン・シュタインに同様の質問をしたとき、シュタインはメイとは対照的な形で「拘束名簿式比例代表制(原文はScrutin de Liste)は選挙の原理として唯一正しい考えかたである」と回答し、死票の問題と「選挙区の区割りは作られたものなので、特定の地方の多数派は国家全体の本当の多数派を支配することになるかもしれない」という問題を指摘して、比例代表制で下院多数派を占める政党が現れないようにして、下院の暴走を抑えられるようにすべきとした。陸奥の講義ノートを研究した高世信晃は2人の回答について考察し、メイが「イギリス政治の実地経験から具体的かつ実践的な」回答をし、シュタインが「行政府に権力を集中させ政府の安定に最大限の注意を払っていた」としている。 メイは日本が上院を設立すべきかについての質問へは「立憲政府を導入するためには必要不可欠」として設立すべきと考えを示し、また「少数派は政治的要求を勝ち取るために政党を組織し、議会へ代表を送り込むだろう」と陸奥に述べ、はからずも労働者による労働党設立を予想した。最終的に陸奥が研究をまとめて提出した『憲法論』では小選挙区制を支持したが、その理由はメイが述べたものと全く同じである。 また陸奥が「イギリスが責任内閣制の恩恵を享受しているのは、徐々にほとんど無意識のうちに形成されたことと慣習とが、一体になることによる」と指摘すると、メイもそれに同調して「イギリスがそうだったように、日本も議会制政治を確立するには200年かかるであろう」と答えた。
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