史実性に関する論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 15:38 UTC 版)
孫武が実在した武将なのかどうか、古くから中国史学者の間では論争が続いていた。そもそも呉で大活躍した武将にもかかわらず、呉に詳しい『春秋左氏伝』に孫武の話が全く登場しないというのが不自然である。その上、孫子兵法は兵法十三編のはずだが、『漢書』「芸文志」ではなぜか八十二編になっているなど謎が多いためである。 既に北宋の兵法家・梅堯臣が、「戦国時代の話のようだ」と孫子兵法と孫武の関係を疑問視していたが、南宋の葉適はさらに一歩を進めて、以下のように孫武非実在説を唱えた。「春秋時代に、他国の人を将軍にした話は全くない。呉の人でもない孫武が、なぜ将軍になれたのだろうか?『春秋左氏伝』に孫武が登場しないのも、おかしいではないか。(結局)孫子の兵法は、春秋の末、戦国の初めの、名もない山林の隠者の作であろう。呉で大活躍したなどというのは、兵法家連中の大げさなデマ、でっちあげだ。闔閭の姫を斬った話など、実に異常ではないか。まったく信用が置けない」(『古今偽書考』に引く葉適の説)。 この説に賛同する者は多く、全祖望、斎藤拙堂、斉志和らなどが孫武非実在説の学者は複数いる。理由を整理すると、『史記』以前の『春秋左氏伝』等の有力な古籍に孫武の名が全く見られないこと、「武」という名が出来すぎていること、『漢書』「芸文志」には「呉孫子兵法八十二篇図九巻」あって、現行の十三篇の孫子と符合しないことなどである。ただし、この孫武非実在説が正しいかどうかも論争の対象となっていて、『古今偽書考』では、「では史記の孫武の記述はウソなのか?孫武は実在したのか?しなかったのか?もはや古代のことで全くわからない」と、さじを投げている。 彼らは『史記』などの古文献の記述の真実性を疑問視し、更に孫子の文章の中に戦国時代の思想である「形名」「五行」などが登場する上、春秋時代の合戦の有様と孫子の文章が相違している点が多いことを論じている。この一派を「疑古派」と称し、彼等により『孫子』は孫臏の著作とするもの、ひいては孫武自体が架空の人物であるとする見解が、清末期から現代にかけて有力になったこともあった。1980年代頃までの孫子の解説書は概ね当時主流のこの立場に拠り、孫武は架空の人物と断定した記述がある。例えば、1961年に出版された貝塚茂樹の『諸子百家』(岩波新書)では、「孫子の兵法は呉の軍師孫武の作だというのは全くのデタラメで、孫臏自身の作品に他ならないことが最近明らかにされた」と断じている。だが1972年、山東省臨沂県で発掘された一群の銀雀山漢簡で『孫子兵法』十三編と、孫臏の著した兵法書(『孫臏兵法』)の竹簡が発見された。さらに分析の結果『孫子』十三編は『孫臏兵法』とは別物であることが証明され、孫武の実在が確かめられたのである(金谷治の説)。 ただし、孫武の事跡に関する史実性に関しては論争が継続しており決着を見ていない。研究者の一部からは、『史記』孫子伝の信憑性が疑われている。特に孫子勒姫兵(孫子勒兵)の故事については「指揮に従わないというだけで隊長を処刑することも、その他の行動も孫子兵法に合致しない。この話は孫子の兵法を曲解した後世の者の創作であろう」(天野鎮雄、要約)、「説話的で、史実とは考え難い」(金谷治、同)等の意見も有力である。金谷治は、『孫臏兵法』に「孫氏の道」とあることから、孫武を中心にした孫氏学派のような兵法家集団がおり、今の孫子兵法は孫武の作に兵法家たちが付加して成立したものだと考えており、天野鎮雄は、孫子兵法の重複部分を削ったものが、おそらく孫武の真作に近い部分ではないかと考え、「原孫子」を推定している。
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