千歳発電所
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豊富な水量を有し、工場のある苫小牧に近いこともあって、当時長距離の送電技術が確立されていなかったこともあり千歳川への関心は高まった。折から、福澤桃介を始め民間による水力発電事業が盛んに全国で行われていたこともあり、明治末期より千歳川に水力発電所群を建設する計画が立てられた。 建設が行われたのは、千歳川が支笏湖より流れ出て、現在の千歳市中心部に出るまでの狭窄部。水明渓谷と呼ばれる一帯であった(千歳市水明郷)。当時この一帯は宮内省の御料地であったが、1905年(明治38年)に使用願申請を行い、これが受理された後に着工された。この地が選ばれた理由は、不凍湖である支笏湖の豊富な水量と千歳川の急流が水力発電に適し、また工場予定地から近距離であるので当時の技術でも送電が可能であったこと、さらに北海道炭礦鉄道が敷設されていたことで物資の運搬が可能であったためである。 発電所を含めた工場建設のための総工費は当時の額で約400万円という高額であり、王子製紙単独では拠出不可能であったことから、三井合名会社の資金援助を仰ぎ建設が始まった。まず1910年(明治43年)4月28日、支笏湖からの吐き口に「千歳第一堰堤(えんてい)」を設けて、そこから水路を通じて発電を行うこととした。これが「千歳第一発電所」であり、認可出力10,000キロワットは当時としては日本最大級の水力発電所であった。第一発電所はその後増設を1914年(大正3年)と1930年(昭和5年)、1969年(昭和44年)に実施し、現在では25,400キロワットを発電する。これ以降1916年(大正5年)から1941年(昭和16年)にかけて、千歳川に相次いで水力発電所が建設されるようになった。 千歳第二発電所 : 1916年3月運転開始。出力2,700キロワット(取水口・千歳第二堰堤) 千歳第三発電所 : 1918年(大正7年)5月10日運転開始。出力3,300キロワット(取水口・千歳第三ダム) 千歳第四発電所 : 1919年(大正8年)運転開始。出力3,600キロワット(取水口・千歳第四ダム) 千歳第五発電所 : 1941年(昭和16年)2月7日運転開始。出力1,600キロワット(取水口・千歳第五堰堤) 特に1918年(大正7年)に完成した千歳第三発電所の取水口である千歳第三ダムは、北海道で初めて建設されたコンクリートダムであり、日本のダムの歴史に特筆されるものであった。また、千歳第一堰堤は日本では唯一となる重力式バットレスダムという型式である。現在では上流の千歳第一・第二堰堤、下流の千歳第四ダムと共に、土木学会による土木学会選奨土木遺産に発電所と一緒に指定される貴重な土木文化財でもある。千歳第一から第五までの発電所群を総称して、一般的には「千歳発電所」と呼ぶ。この後、羊蹄山を水源とする尻別川にも「尻別第一・第二発電所」が建設された。さらに1928年(昭和3年)には千歳川の支流である漁川に恵庭発電所(出力2,150キロワット)が完成し、王子製紙の主力工場である苫小牧工場の操業を支えた。 なお、千歳発電所から供給される電力は、北海道電力で供給される交流電源の周波数50Hzではなく、西日本の電力周波数と同じ60Hzである。これは1910年(明治43年)の千歳第一発電所建設当初、王子製紙が導入した発電機が60Hzだったことに由来する。また、この電力は王子製紙苫小牧工場内だけでなく、支笏湖畔の支笏湖温泉街一帯全てに供給されている。支笏湖温泉街では西日本と同じ60Hzに対応した電気機器が必要である。
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