十二表法成立期(共和政期)
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「ローマ法」の記事における「十二表法成立期(共和政期)」の解説
この時代に重要な法源となったのが、パトリキとプレブスとの間の闘争の結果として制定されたと伝承に残る十二表法である。十二表法は紀元前449年に十人委員会によって起草された。その断片が記録されて残っているが、そこから分かるのは、十二表法は近代的な意味での法典といえるものではなかったということである。十二表法は、いかなる事案にも法的解決を与えるような適用可能なあらゆる規則を完全かつ首尾一貫した体系として提示することを目的としたわけではなかった。 そのため、その後、十二表法を補完し、修正するためにいくつもの法が制定されていくが、それには、紀元前445年のカヌレイウス法(パトリキとプレブスの婚姻を認めたもの)、紀元前367年のリキニウス・セクスティウス法(公有地の所有に制限を設け、執政官の1人をプレブスとすることを保障したもの)、紀元前300年のオグルニウス法 (プレブスにも神官になる道が開かれた)などがある。 紀元前287年のホルテンシウス法は、平民会の決議に全市民を拘束する権限を与え、以後平民会は大きな権限を持つようになった。平民会が議決した最初の法は、紀元前286年のアクィリウス法であり、これは他人の奴隷または大型の家畜を不法に殺害した者に一定の銅貨を支払うべきことを定め、不法行為法の原点とされている。 十二表法は、その制定当時に既に存在していた慣習法を変更することを意図した個別的な規定をいくつも集めたものであるが、これらの規定の中で最も大きな部分を占めるのは、私法と民事訴訟に関するものであった。そのためローマ法は私法を中心に発展していくことになる。もっとも十二表法は、あらゆる法分野に関係しており、これをなるべく広く柔軟に解釈していくことによって妥当な結論を得ようとする傾向を生み出した。そのため、「十二表法はすべての法の源である。」と言われた。 ローマのヨーロッパ法文化に対する最も重要な貢献といえるのは、よく練られた成文法が制定されたことではなく、ギリシャ哲学の科学的方法論を法律問題(ギリシャ人自身はこれを科学として取り扱ったことはなかった)に適用するヘレニズム法学と呼ばれるローマ法学の成立と専門家集団としての法律家の出現である。 ローマ法学の起源はグネウス・フラウィウスの伝説に求められる。フラウィウスの時代の前には、法廷において訴訟を開始するために用いるべき術語を集めた式文集は秘密のもので、神官にしか知られていなかったといわれている。フラウィウスは、紀元前300年ころ、これを盗み見て式文集を出版し、以後、神官でなくてもこれらの法的文書を探求することができるようになったとされている。この伝説が信用できるか否かはともかく、紀元前2世紀には、法律家の活動が盛んになり、法学論文が多数書かれるようになったのは事実である。共和政時代の有名な法律家の中には、 法のあらゆる側面についての膨大な論文を書き、後世に多大な影響を与えたクィントゥス・ムキウス・スカエウォラや、キケロの友人であったセルウィウス・スルピキウス・ルフスがいる。それ故、紀元前27年に共和政ローマが倒れ、代わって元首政という独裁体制が成立したころには、既にローマには非常に洗練された法制度と一新された法文化が存在していたのである。
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