十二表法先史とは? わかりやすく解説

十二表法先史(王政期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 14:16 UTC 版)

ローマ法」の記事における「十二表法先史(王政期)」の解説

ローマ建国時期明確になっていないが、ロームルスとレムスに始まる伝説はともかく、少なくとも考古学的に紀元前8世紀遡ることができるとされており、一人の王が貴族パトリキ)と平民プレブス)を統治する王政がとられていた。先住民は、「父たち」と呼ばれ平民は後に移住してきた人々であり、王政最後3代の王がエトルリア人であったことから多民族国家であった考えられている。平民は王の選定にあたりクリア民会通じて政治に参加したが、王の「就任式」には鳥卜官(アウグル)と呼ばれる神官関与していた。当時紀元前754年 - 紀元前201年)の市民法は、ローマ市民にのみ適用され鳥卜官に象徴される現代ではその詳細不明な当時宗教と密接に結びついた原始的儀式的な性質有しており、厳格な形式性、記号性及び保守性特徴としていた。 ローマ法発展始まった日を正確に特定することはできないが、内容まである程度判明する最初法的文書は、十二表法である。もっとも、原始的儀式法的理論を結びつけた握取行為のように重要な法律行為のほとんどは、十二表法成立する前の王政期にすで成立発展していたのであって王政倒れ共和政期入ってから、その将来方向性定まったのであるそもそもローマ人には法を法典化しようという一般的な傾向はなかった。そのために、ローマ法法典化されたのは、ローマ法歴史中でも最初十二表法)と最後ユスティニアヌスの『市民法大全』)しかないのであり、ローマ法長い年月をかけて歴史的に発展した不文慣習法のである共和政期十二表法によって定まった方向性帝政がとられた古典期多く法学者によって理論的に体系化精密化していって発展し、その成果集大成して法典化したのがユスティアヌス帝期の市民法大全のである。したがってローマ法歴史は、大きく分けて十二表法成立期古典期ユスティニアヌス法成立期によって区分されるのである王政末期から共和制初期には、開戦和平対す権限有していた武装集団であったケントゥリア民会法律制定し上級政務官選定する権限有するようになっていった。

※この「十二表法先史(王政期)」の解説は、「ローマ法」の解説の一部です。
「十二表法先史(王政期)」を含む「ローマ法」の記事については、「ローマ法」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「十二表法先史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「十二表法先史」の関連用語

十二表法先史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



十二表法先史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのローマ法 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS