北極海航海
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「ウィリアム・スペアズ・ブルース」の記事における「北極海航海」の解説
ブルースはフランツ・ジョゼフ・ランドから戻ると、エディンバラで元の庇護者ジョン・アーサー・トムソンの助手として働き、ベン・ネビス測候所の仕事も再開した。1898年3月、民間のヨットブレンカスラで、アンドリュー・コーツ少佐が行うノヴァヤゼムリャとスピッツベルゲン島周辺の北極海での狩猟航海に加わるよう誘われた。この誘いは当初、王立地理学会から休暇を取得できなかったミルからだったが、再度ブルースを代理として提案された。アンドリュー・コーツは羽振りの良い製糸産業のコーツ家の一員であり、ペイズリーにはコーツ天文台を設立していた。ブルースは1898年5月に、ノルウェーのトロムソでブレンカスラに乗り、その後はバレンツ海を探検し、ノヴァヤゼムリャの双子島、コルグエフ島と進み、その後北東ノルウェーのヴァードーに戻って、スピッツベルゲン島に行くための物資を補給した。ミルに宛てた手紙で、ブルースは「これは純粋にヨットの巡航であり、人生は贅沢である」と報告していた。しかしその科学的作業は衰えることなく、「私は気象観測と海面温度の計測に4時間を使っている。...ブキャナンの比重計で塩分濃度を調べ、私の引網はほぼいつも働いている」と記していた。 ブレンカスラはスピッツベルゲンに向かったが、氷に阻まれたのでトロムソに引き返した。そこでは調査船のプリンセス・アリスと遭遇した。その船は、指導的海洋学者であるモナコ大公アルベール1世のために建造されたものだった。ブルースは大公がプリンセス・アリスでスピッツベルゲン近くでの水界地理学の調査にブルースを招待したのでブルースは喜んだ。プリンセス・アリスはスピッツベルゲン本島の西岸を北上し、アドベントフョルデンやスメーレンブルクを訪れた。その航海の最終段階で、ブルースは航海の科学観測の任務を与えられた。 ブルースは次の夏にもアルベール大公からスピッツベルゲンへの海洋学的巡航に加わるよう誘われた。北緯80度にあるレッド湾で、ブルースがその地域の最高峰に登山し、大公がその栄誉を称えて「ベン・ネビス」と名付けた。プリンセス・アリスが水中の岩礁に座礁して立ち往生したとき、アルバート大公は船が脱出できないかもしれないと考え、ブルースに冬季宿営の準備を始めるよう指示した。幸運にもプリンセス・アリスが浮きあがて脱出でき、修繕のためにトロムソに戻ることができた。
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北極海航海
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「セミョン・デジニョフ」の記事における「北極海航海」の解説
1647年、デジニョフと同じく北ロシア(現在のアルハンゲリスク州ホルモゴルイ)出身でヤクーツクを拠点とする商人フェドット・アレクセイエフ(フェドット・アレクシーヴ)・ポポフ(Попов, Федот Алексеевич)は、コリマ川河口から北極海沿いに東へ向かう航海を組織した。前年の1646年、イグナチェフ(Семён Ива́нович Игнатьев)という人物がコリマ川河口周辺の航海を行いセイウチのキバやクジラのヒゲなどの貴重な品を持ち帰っていたため、さらに東へ向かいこれらの産品を持ち帰ることを意図していた。この時デジニョフはポポフに誘われ、鉱夫や先住民からの税の取り立てを行うためにポポフの航海に同行した。彼らの目的地はおそらくはるか東のアナディリ川だったと考えられるが、海氷が行く手を阻み航海途中で引き返すことになった。 デジニョフやポポフはあきらめず、翌1648年も同じ航路に挑戦した。彼らは90人から105人ほどの探検隊を組み7隻の船に分乗してアナディリ川を目指した。彼らは10週間の航海の後にアナディリ川河口にたどり着いた。これはアジア大陸の東端を周り、ベーリング海峡を南北に通過したことを意味する。フェドット・アレクシーヴの航海の足取りは現在でも判明しているが、航海中のデジニョフの役割は記録に残っていない。デジニョフはアナディリ川を遡りアナディルスキー・オストログ(アナディリ砦)を築き地図を作製した。同年、デジニョフはアジア大陸先端の北岸に沿って航海し、アジアとアラスカの間の「アニアン海峡」(当時アジア大陸とアメリカ大陸の間にあると想像された海峡で、北西航路や北東航路などヨーロッパからアジアへの最短航路を構成すると考えられていた)を発見したと記録に残した。彼は海岸沿いにチュクチ半島を回航し、古代の地図作者が想像した伝説の「タビンの岬」(Tabin Promontorium)の詳細を記録している。またチュクチ人("Ostrova zubatykh")の住む二つの島を記録しているが、これはベーリング海峡中央に浮かぶダイオミード諸島を構成する二つの島と考えられる。彼はチュクチの人々("zubatiye")について、下唇をセイウチの牙のかけらや石や骨で飾ることを記録している。一方でポポフはこの年の秋にアナディリ湾沿岸で没している。デジニョフがどの港に戻ったかは不明である。彼は1664年にコサック隊長の称号を受けた。
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