利家死後とは? わかりやすく解説

利家死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:11 UTC 版)

前田利長」の記事における「利家死後」の解説

父の利家は豊臣政権において、五大老一人として徳川家康対抗する位置にあった慶長4年1599年)閏3月3日、利家が病死したため、その跡を継ぎ五大老一人(及び豊臣秀頼傅役)となる。その翌日五奉行一人石田三成襲撃されるなど党派抗争始まり前田氏は対徳川急先鋒立場に立たされる同年8月、利家の遺言では3年上方離れるなとあったにもかかわらず家康勧めより金沢へ帰国した(『三壺記』)。 翌月増田長盛などが利長・浅野長政らの異心家康密告する。この時期前田氏屈服させようとする家康謀略があったと考えられており、家康強権発動して加賀征伐献言する。 この家康による加賀征伐対し前田家交戦派と回避派の二つ分かれ初め交戦であった利長は細川氏宇喜多氏通じて豊臣家に対徳川救援求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため[要出典]、実母芳春院(まつ)の説得もあり、重臣横山長知弁明3度派遣し芳春院人質として江戸家康差し出すこと、養嗣子・利常と家康孫娘珠姫徳川秀忠娘)を結婚させることなどを約して交戦回避した慶長危機)。この際浅野長政浅野幸長大野治長などが連座している。 なお、近年の研究においては徳川家康加賀征伐計画そのもの当時の「風聞」の範疇に過ぎないという見方存在している。大西泰正は利長は当初より徳川協調して領国保全する立場で、秀頼の傅役職務放棄加賀への帰国もその一環であったが、9月家康大坂城入りして事実上専権確立されたことで両者わだかまり生じ、利長も徳川に従うか否か政治的判断迫られたとしている。また、この時期松平信吉を利長の養子迎え構想もあったと言われている。 この過程問題解決奔走したのは重臣横山長知であった横山越前府中時代の利長に召し抱えられ直臣で利長が前田家家督継いだ後も腹心として活躍したが、加賀前田家初代である利長の父・利家とは一度直接主従関係持ったことがなかった(これは利家の遺物分配名簿横山の名前がないことからも裏付けられる)。これに対して、利長の弟である前田利政や利家以来宿老であった村井長頼奥村永福は利長や横山方針に不満を抱き徳山則秀のように出奔する者まで現れた。また、片山延高自分死後謀反する恐れありとする利家の遺言によって暗殺された。さらに能登旧国であった畠山氏旧臣出身長連龍織田信長から鹿島郡半郡を安堵されて以来前田家指揮にあったとは言え与力大名としての性格持ち続けて前田家家臣ありながら独自の領国支配続けていた。こうした多彩な出自を持つ家臣団統制に利長は苦心することになる。

※この「利家死後」の解説は、「前田利長」の解説の一部です。
「利家死後」を含む「前田利長」の記事については、「前田利長」の概要を参照ください。

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