初期のコンピュータに関する仕事とチューリングテスト
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「アラン・チューリング」の記事における「初期のコンピュータに関する仕事とチューリングテスト」の解説
1945年から1947年まで、チューリングはロンドンのリッチモンドに住み、イギリス国立物理学研究所 (NPL) にてACE (Automatic Computing Engine) の設計を行う。1946年2月の論文では、プログラム内蔵式コンピュータの英国初の完全なデザインを発表している。フォン・ノイマンの「EDVACに関する報告書の第一草稿」はチューリングの論文より先に存在したが、チューリングの論文の方が詳細であり、NPL数学部門の責任者だった John R. Womersley は「チューリング博士の独自のアイデアがいくつか含まれていた」と記している。また、フォン・ノイマンはさらに遡る1936年の時点でチューリングがプログラム内蔵式について先駆的な論文を発表していたことを認めていた。ACEは実現可能な設計だったが、ブレッチリー・パークで軍事機密に関わる仕事をしていたことが原因でプロジェクトは遅々として進まず、1947年、サバティカル休暇でケンブリッジに戻る。彼がケンブリッジにいる間にACEを縮小した Pilot ACE が作られた。1950年5月10日に初めてプログラムの実行を達成している。 1948年にマックス・ニューマンの招きでマンチェスター大学に招かれ、チューリングは同大学で設立されていた王立協会計算機研究所の副所長に就任し、そこで初期のコンピュータ Manchester Mark I におけるソフトウェア開発に従事。この時期はより概念的な仕事にも取り組み、Computing Machinery and Intelligence(「計算する機械と知性」、1950年10月、「Mind」誌)という論文では人工知能の問題を提起、今日チューリングテストとして知られている実験を提案している。すなわち、機械を「知的」と呼ぶ際の基準を提案したもので、人間の質問者が機械と会話をして人間か機械か判別できない場合に、その機械が「思考」していると言えるというものである。その中で、最初から大人の精神をプログラムによって構築するよりも、子どもの精神をプログラムして教育によって育てていくのがよいと示唆している。 1948年、当時まだ存在していなかったコンピュータチェスのプログラムを書き始める。1952年、当時のコンピュータは性能が低くそのプログラム実行には適さなかったため、自分でコンピュータをシミュレートしてチェスの試合を行ったが、一手打つのに30分かかったという。その対戦の棋譜が残っている。同僚との対戦ではプログラムが負けているが、別の同僚の妻にはプログラムが勝利している。 チューリングテストは独特の挑発的特徴があり、人工知能に関する議論で半世紀にわたってよく引き合いにだされ続けた。 1948年には行列のLU分解も考案しており、今でも線形方程式の解法として使われている。
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