初期のクロアチア公時代とは? わかりやすく解説

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初期のクロアチア公時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/28 03:10 UTC 版)

トミスラヴ (クロアチア王)」の記事における「初期のクロアチア公時代」の解説

トミスラヴ出自明らかになっていないが、トルピミロヴィチ家の出身であると推定されている。最初にトミスラヴの名前が現れ時期先代クロアチア公であるムティミルについて最後に言及され時期の間にはおよそ20年の差があり、史料不足しているもののムティミルの子であると考えられている。910年頃にトミスラヴはトルピミル1世の子であるムティミルの跡を継いでクロアチアとなった説が一般的であるが、ムティミルの死後に公となった別の人物の跡を継いだ説も存在するいずれのでも、910年から914年までの間にトミスラヴが公となったことは共通している。13世紀スプリト大助トマスによって著された『ヒストリア・サロニタナ』には、トミスラヴ914年に公位に就いた記されている。 トミスラヴ時代クロアチア南部中央クロアチア大部分、テマ・ダルマチア(英語版)を除くダルマチア沿岸部ヘルツェゴビナ西部ボスニア北西部一部含んでいた。10世紀クロアチアリヴノ、セティナ(英語版)、イモツキプリヴァ、プセト、ブリビル、クニン、シドラガ、ニンなどの都市を含む11の郡に区画され、それらの郡以外にバン(王の総督)の支配下置かれている3つの郡が存在していた。年代記作家として知られるビザンツ皇帝コンスタンティノス7世は『帝国統治について(英語版)(De Administrando Imperio)』の中で、最盛期クロアチア100,000歩兵60,000騎兵80隻の大型艦船100隻の小型艦船から構成される強大な軍事力有していたことを記している。コンスタンティノス7世記録現れる数値脚色されたものであり、クロアチアの軍事力を過度に強大表した考えられている。

※この「初期のクロアチア公時代」の解説は、「トミスラヴ (クロアチア王)」の解説の一部です。
「初期のクロアチア公時代」を含む「トミスラヴ (クロアチア王)」の記事については、「トミスラヴ (クロアチア王)」の概要を参照ください。

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