初期のクラシック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 00:46 UTC 版)
「アメリカ合衆国の音楽」の記事における「初期のクラシック」の解説
植民地時代のアメリカでは、クラシック音楽のグループは2つあった。一つめの、アマチュア作曲家・衒学者グループは、シンプルな聖歌を基本としながら、年を追うごとに複合的な手法を用いるようになっていった。もう一つの分野は、フィラデルフィア・バルチモアなど、中部大西洋岸の諸都市における、ほぼヨーロッパのモデルの中で活動する有名な作曲家たちのグループである。こちらの作曲家たちのほとんどはイングランド出身で、ヨーロッパ音楽の中でも特に、当時有名だったイングランドの作曲家のスタイルで活動していた。 クラシック音楽がアメリカに持ち込まれたのは植民地時代である。この時代、アメリカの作曲家の多くはヨーロッパ音楽を唯一のモデルとして活動していたが、ウィリアム・ビリング(en:William Billings)、サプライ・ベルチャー(en:Supply Belcher)、ジャスティン・モーガン(en:Justin Morgan)など、第一ニューイングランド派として知られる作曲家は、ヨーロッパのモデルから完全に独立したスタイルを生み出した。これらの作曲家の中でももっとも多く記録が残っているのはビリングである。ビリングはまた「アメリカの聖歌隊の創設者として、最初にピッチパイプを使った音楽家として、チェロを礼拝に取り入れた最初の人物として」その影響力は大きい。第一ニューイングランド派の作曲家の大半はアマチュア歌手であった。彼らはアマチュアによる演奏に向いた新たな形式の宗教音楽を作り出したが、その中で、ヨーロッパのスタンダードからすれば奇妙に思えるような和声の技法を用いることもしばしばあった。彼らのスタイルは「洗練された、当時のヨーロッパのやり型」の影響を逃れ、モードや、五音の音階・メロディといった技法を使用し、ヨーロッパの和声のルールを忌避した。 19世紀初頭、アメリカは風変わりで意図的な「アメリカ流」スタイルの作曲を行い、アメリカで交響楽団のための作曲を行った最初の作曲家となったアントニー・フィリップ・ハインリヒ(en:Anthony Philip Heinrich)などの様々な作曲家を生んだ。この他にも、有名なところではウィリアム・ヘンリー・フライ(en:William Henry Fry)、ジョージ・フレデリック・ブリストウなど、多くの作曲家が、方向性こそきわめてヨーロッパ的であったが、アメリカ流のクラシックスタイルのアイデアを支持した。しかしヨーロッパで有名になったアメリカの作曲家は、ジョン・ノウルズ・ペインが最初である。ペインの成功例は、エイミー・ビーチ、エドワード・マクダウェル、ホレイショ・パーカーといった第二ニューイングランド派の作曲家を刺激することとなった。 もっとも記憶に残っている19世紀アメリカの作曲家は、おそらくルイス・モロー・ゴットシャルクである。音楽史研究家のリチャード・クロフォードによれば、ゴッドシャルクは「土地に根ざした民俗上のテーマや韻律を、コンサートホールへともたらした」ことで有名である。ゴッドシャルクの音楽は故郷のニューオーリンズでの文化の交流を反映している。ニューオーリンズはラテン・カリブ・アフリカ・ケイジャン・クレオールと、様々な音楽が根づいた土地であった。ゴッドシャルクはその生涯において天才ピアニストとして知られており、作曲家としての活動は少ないにもかかわらず、その評価は高い。
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